難民

■難民

 今日もいい天気だ。毎年この時期には登山を入れていたが、今年は出来そうもない。おそらく空いているだろうなあ。気分を紛らわすためにパチンコでもしようかと思うが、休業要請でやってないかね。パブリシティで確認しよう。しかし、今日は車がないので諦めである。生活のパターンが変わってしまった。いや、正確には定着できるまで試行錯誤といったところだ。世の中の動きが速すぎて老人は付いていけない。

 枝を処理していると昼になる。買い出しに行かなければならない。これまで、一日に2~3回行っていたが、一日一回に減らしたので重い。野菜半分と肉があるので、焼きそばにすることにした。久しぶりに塩麹で味付ける。

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 これは、もう改良の余地はない。大満足であった。やはり麺つゆ添加が効いている。

 家の中に籠城するも面白くない。テレビはコロナばっかりだし、本も読めない。そこで、ラジオをイヤホンで聞きながら散歩にいくことにした。途中で疲れたらコーヒーショップに入ればいい。NHKFMの12時半からに番組はほぼ毎日聞いている。今日は昔のフォークソング特集であった。いいねえ。

 歩いていると、マスクが落ちている。使い捨てマスクであるが、本当に使い捨ててある。このところ毎日見ている。同じ人間か?

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 疲れが出た。ここ毎日1万五千歩ほど歩いている。近くのコーヒーショップに行ったが、14時までであった。それなら、コンビニのイートインにしようと向かったが、椅子が取り払われていた。最後の手段は公園である。遊具はテープをされているが、ベンチで休もうと公園まで疲れを圧して歩いた。しかし、なんとベンチもテープであった。

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 これには驚いたね。これで、否応もなく路上難民になった。あっちうろうろ、こっちうろうろと2時間ほど時間を潰した。しかし、これがこのまま続くと参ってしまう。生活パターンの立て直しが必要になろうが、まだ固まっていない。

 基本的な考え方は、年金減額に備えてコーヒーショップは頻度を落とすか、昼飯の予算をもう少し抑えるとか、悩ましいねえ。

 なんか緊急事態宣言を伸ばすとか聞こえてくる。そうすると、現在5月6日まで休みという店は日が伸びるのだろうか、それとも廃業されるのであろうか。

■「空から森が降ってくる」(小手鞠るい著、平凡社、2019年)を読む。

「秋の終わりになったら自然に枯れてしまう草花を、なぜ、草刈り機でいっせいに刈り取ってしまわないといけないのか。自然に生えている草を刈るために、ガソリンを使って排気ガスをまき散らすなんて、愚かな行為~」

「~前庭の芝生の状態が、その家の経済状態を物語っている~」

「暇さえあれば、私は山登りをしている。」

「いつ登っても、山には出会いと発見がある。」

「この人生を生き終えたら、そこには何があるの?何もない、ただ生きたという満足感だけがある。」

「木とはなんと偉大な存在なのだろう。」

「死にかけている老木の方が、美味しい実をたくさんつけるのだ。」

「まさか、青森県のりんごは、もとを正せばアメリカ生まれ、アメリカ育ち~」

「桜はうつむいて咲くけれど、りんごは空を見上げて咲く。」

「冬をしっかり越さない限り、春をしっかり感じることはできない~」

「人の見ている風景とは、その人の心模様の反映であるということなのか。」

「息苦しかったのは~私は私を支配しようとしていた。」

「~売れない作品、つまり失敗作を出す。」

「~大きな奇跡が起こったとき、人はそれと引き替えに、何か大きなものを失ってしまう~」

「散歩である。街歩きである。ひたすら歩く。ときどき、空を見上げる。」

「~桃源郷とか神仙郷でも理想郷でもなく、目的意識を持って追求しても、たどり着けるような現存の場所ではないという。」

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」