三校目

■三校目

 今日は午前中、フォレスト関連で小学校と打ち合わせがある。三校目である。まだ、二校目の議事録すらかけてないのに、どうなるやら。

 庭木に花が咲いていた。ウツギである。咲いている期間が長いね。

 場所は、意外に近かった。時間が空いたので学校の周りを歩く。

 打合せは初めてのパターンであった。総勢60名を2日間行うのである。

 打合せが終わってから、昼食である。今日は蕎麦の日である。気温が低かったので温麺にした。いなり蕎麦であるが、いつもは、大きな揚げを一枚乗せているが、今回は2CMほどに切ってから味を付けて乗せた。見た目よりも味を優先したい。

 麻婆豆腐は、家人が市販のタレで作ったモノの余りである。自分のに慣れているので少し違和感を感じる。

 昼食後はFM放送を聴きながらなご成る。

 食器を洗った後に、フォレストの準備作業を2時間ほど行う。まだまだ終わらない。品質も要求されるので気は抜けない。

 雨が降り出したので中断して、傘を差して公園を歩く。

 これは、ネズミモチと表示されるが、トウネズミモチだと思う。

 明日は、予定が許せばパソコンを持ってセカンドオフィスでこもろうと考えている。

■「老いる意味」(森村誠一著、中公新書ラクレ、2021年)を読む。(その2)

「つまり一発必中」

「~好きに生きていけなければおかしい。」

「いきすぎた倹約生活は、やっと手に入れた余生を楽しいものではなくしてしまう。」

「いい意味でのあきらめ」

「“うまくいかない”ことも想定の範囲内に入れておくべきだ。」

「人間は歳を重ねても、欲望を持ち続けていれば、艶がなくならない。」

「楽隠居というと、聞こえはよくても、決して楽ではない。」

「人間は歳をとっても、なにかしら仕事をしていきたいものだ。」

「~田舎の生活、コミュニティには“老人を孤独にさせない底力”がある。」

「生は死の始まり」

「歳をとったら何もできなくなるのではなく、なんでもできるのである。」

「我らはこの世に何ものも持たず来りて、また、何ひとつ持たずにこの世を去っていく」

「人間関係まで機械化している。」

「そこには“何をしてもいい自由”と“何もしなくていい自由”がある。」

「“生きていく緊張感”を失ってはいけないということだ。」

「生きがいとは、“自分はたしかに生きている”という実感である。」

「挑戦というテーマをいつまでも掲げておくのがいいのではないかと思う。」