知らぬ間に

■知らぬ間に

 このごろ、本当に体力が無くなってきたなあと感じる。昨日なんか、東京方面を車で往復しただけなのに、この疲れ方は異常であった。疲れすぎて眠れないという表現がぴったりである。まあ、昔のことを思い出すのは止めておこう。

 移動中で聞けなかった放送が、今の時代は聞き逃し配信ということで聞くことができるようになった。そこで、夕飯後は、ラジルラジルで聞き始めた。これはいい!と感じたことまでは覚えているが、いつの間にか眠ってしまったらしい。こういう日の朝の目覚めは爽快である。気持ちよく目が覚めたら、スマホがカバーを開いたまま立てかけてあった。

 知らぬ間に眠ってしまったは、知らぬ間に逝ってしまったに通じると思う。

 意識が日常に戻ってきてからは、やらなければならないことが、洪水のように襲って来て、精神に異常を来しそうになる。耐えられないような異常がある場合は、自分の中の弱い部分から症状が出るので分かりやすい。ストレスの場合は、まず指先が冷たくなる。それ以外では、胃がおかしくなるなどである。これは、対応方法を誤らなければ大事に至ることは少ないと感じている。

 また、こういう場合は、メモに書いて該当項目を明確にして、優先順位や準備内容などを分かるようにしておけば、ある程度解消されると、これまで生きて来た経験で分かるが、どうかねえ。ダメな場合もたくさん経験してような気もする。

 とりあえず、やみくもに列挙してみよう。

 部屋の廊下に金属のガイドを付けて、写真を飾るようにする。まあ、画廊のようにするのである。そして、この金属のガイドは、家を建てる時にもらっていた。20年ほど前になろうか。アルミ製なので、腐食は目立たない。廊下の壁も、通常は石膏ボードの上から壁紙をはるが、ここだけは、合板の上に壁紙を貼ってもらった。

 金属ガイドのレールを取り付けた後に、フックを付けるが、もう販売はしてないと思うし、お金はかけられなので、手作りである。板を切って溝にはめて、ヒートンの大きなものでフックを付ける予定であった。

 しかし、金属を切る道具がない、金属に穴を空ける道具がない、などで20年である。まあ、いろいろ調べながら取り組んで行こう。

 子供の座椅子が壊れて引き取ってきたので、修理を試みる。ダメなら廃棄する。自分の今使っている座椅子も修理しながら年々使っている。まずは、修理できる場所に移動させなければならない。

 森の寺子屋が動き出したので出前講座の原稿を作らなければならない。どんな題材にするかが悩ましい。これに伴って、森林・林業白書にも目を通しておかなければならない。いや、これは、パソコンで見ればいいか。

 パソコンとプロジェクターの借用願いを提出しなければならない、森の教本のパワーポイント版をUSBで入手しなければならない。新入会員の懇談会の席上で渡す(コピー)連絡もしなければならない。

 実家の解体を続けなければならない。一時保管場所が必要であるが、どうするか。特に仏壇を置いておく場所が必要である。お金は掛けられないので、知恵と工夫と体力で乗り切らなければならない。そして、新しくセカンドオフィスとしてスタートさせる。

 肥満を解消しなければならない。物騒な世の中になってしまった筋力も付けなければならない。武道も必要かも。

 精神の安定のために、ギターを再開したい。自分がやっていた、昔(50年前)に比べてだいぶ変わっただろうから、そこからやり直しである。最近、昭和の歌がリバイバルしている。何度も挫折した演奏も今ならツールも時間もあるので近づけるのではないか。まずは、弦を押さえる左指先の強化が必要である。

 最近、通信費が高くなっているので、これを打開する方法を探らなければならない。家のルーターも古いので買い替えが必要だ。

 やはり、支離滅裂になってしまった。

 そんな時家人より、買い物指令が入る。狙いは卵である。しかし、千円以上買わないと安く買えない。指定されたものを買うが、特売品ばっかりであるので、千円まではいかない。不要なものも買ってしまう。冷凍食品が6割引きである。いくつか買おうとしたが、値段が冗談のように高い。6割引きでも手が出ない。記憶では定価で600円ぐらいのものが、千円近くになっている。

 これでは、6割引きの意味がない。最も、これは、客を寄せる手口であろうことは誰もが分かっているが、つい・・・・・。結局、買わなかった。

 昼食である。今日何の日だったかをこのブログで確認するとスパゲッティのようである。そろそろ、トマト味が恋しくなって来たので、トマトニンニクスパゲッティを作ることにする。

 その前に一品として、竹輪にポテサラを入れて揚げた総菜を作った。家人が好物である。昼は一本だけ使う。

 ニンニクをスライスして、オリーブオイルで焼いて、ベイクトガーリックを作る。

 次いで、タマネギをみじん切りにして、これも多めのオリーブ油で炒めて、色が茶色になるまで炒める。その他に、ニンニクのみじん切りを用意する。

 トマトの缶詰は400gあるので、ちょうど半分にする。

 麺は、湯切りしないで、箸で入れる、煮汁はそのままついたままにする。

 最後に塩を一つまみ。今日は、一味も入れて見た。

 なかなかいいではないか。しかし、食べ過ぎである。節約ではないが、もう少し減らそうと思う。今日は、ギョウザを2個に減らしたが、効果なし。やはりおにぎりかな。その分、麺を減らしているつもりであるが、それでも多いね。いっそ、半分にすればどうかね。

 昨日の疲れを引きづっており、なご成る。

 昼も遅くなって、セカンドオフィスへ向かう。知らぬ間にもう暗くなって来た。

■「生きる意味」(姜 尚中著、毎日新聞社出版、2022年)を読む。(その1)

「しかし、自分の人生の終わりが避けられなくなった時、人はどうするのか。問いは重たい。」

「~そもそも悲観論はその予測が当たっても人々から歓迎されるわけではないのだ。」

「“タフな”悲観論は、ある意味でコロナ時代を生きる“心のワクチン”なのかもしれない。」

「人生にはそもそも幸福などない。人生は苦行そのものなのだ。」

「計画を立てることは、そこに至るまでの努力は報われるなずだし、必ず幸せに通じるという“思い込み”の上に成り立っている。」

「計画を立てることなど無意味だし、むしろ無計画であるほうが幸せである」

「~むしろ無計画であるほうが幸せで、焦りや妬み、憎しみや不安から解放される術は、身近なところにある。」

「無計画であることに落胆や失望はないし、不安の影が差すこともないに違いない。」

「そこには、計画そのものとは無縁の、したがって失望も嘆きも不安もなく、それでいて淡々と季節の移り変わりを静かに楽しむ贅沢な生き方があった。」

「~一切の計画とも無縁な、探されてゆく日々を自ら選び取ることを意味している。」

「~“野菜スープ”と“節食”のおかげで健康を取り戻し~」

「~最も大切なことは、身体の“地力”を養っていくことだと思うようになったからである。」

「~物事の本質はシンプルであり~」

「さらに、より深刻なのは、国すらも当てにならないのではという不安が広がりつつあることだ。」

「“貪欲に”生きるとは、日々、口の中に入れるものを大切にし、我が身の養生に気を配り、そして日々の糧を隣人と分かち合うことを意味している。」

「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)とは、規則が細かすぎるため、煩雑な手続きや虚礼が多く、息が詰まりそうな非効率な状態を指している。」

「音楽や演劇、踊りが、アスリートと遜色ないほどの“全身運動”で成り立っている~」

「文事有る者は必ず武備有り。武事有る者は必ず文備有り」

「仰向けで夜空の星を眺めながら眠りにおちる。」

「文章の勢い」