■筋肉痛
いつのころからか、登山の後の筋肉痛は2日目に現れるようになっていた。しかし、今朝は猛烈な筋肉痛がある。やはり、昨日の登山は自分にはハードだったのだろう。
登山の方法はいろいろある。極端な例では、ヘリコプターで頂上に降り立ち、登った登ったと喜ぶ人もいようし、必ず一番下から登り始める人もいる。どれでもいいと思う。また、百名山ばかり登る人もいるし、逆に地元の低山ばかり登る人もいる。
こういう嗜好性の高い登り方の中で自分が知っているのは、登山道を使わないで登る人たちである。GPSを持参しどこから登っても登頂できるのであるが、当然、登山道なる有り難いモノはないし、藪コギ、渡渉、崖登りなどを繰り返すのである。まあ、これもいいではないか。自分が昨日付いて行ったのは、こういう人たちであったようだ。
どんな急でも登山道はありがたい。足場も無い急坂を登るのは体力を使うし、危険である。後悔先に立たずというのが今の自分に当てはまる言葉である。
今朝もいつもの朝である。足腰が痛い時に限って動きはいい。まず、干し芋と干物をセットする。そして、自家用車の清掃をする。一服した後に、セカンドオフィスへ向かう。
昼時なのでスーパーに寄って帰るが、徒歩なので時間がかかった。自分の毎朝のパンは特殊なため、売っている店は限られている。そこで、ちょっと高いが牛乳などを買う。
帰り道、土筆を見た。今年初見である。そうか、土筆の食べ方も調べなければならない。これまで、天ぷらはダメだった。あんかけが良さそうだ。
公園経由で帰路に着く。黄色い花が咲いていた。この花は長い。トサミズキとヒュウガミズキがあるが、自分は逆に覚えていたことが分かった。花が長いのがトサミズキであると出ている。
今日は蕎麦の日である。暑いので、おろしそばにした。昨日のフキノトウと買って来た野菜で天婦羅を添える。意識的に量は少なくした。この程度で十分である。
そして、お待ちかねのラジオ放送である。今日は東京特集であった。いろんなジャンルが混ざっていたが、良かったね。明日も楽しみである。
放送後、買い物に行かなけばならない。こういう日は、近くの喫茶店に向かう。
アイスコーヒーにした。いつもの常連さんが勢ぞろいであった。
水餃子が少なくなったので補充したいが、なかった。代替品は買わないことにした。
■「生きる意味」(姜 尚中著、毎日新聞社出版、2022年)を読む。(その2)
「以来、長めの文章を書く時には愛用の万年筆で原稿用紙に下書きをし、それをワープロで清書するようになった。」
「アナログなものへの嗜好は今も健在である。」
「年を取るとともに涙もろくなるのは、新しい刺激でワクワクするより、過去の思い出に浸るほうがしんみりして落ち着くからだろうか。」
「年を重ねて初めてわかることがあるのだ。」
「間違った電車が時には目的地に運ぶ」
「映画は、心の掃除をしてくれるのである。」
「ファイトケミカルは~身近な野菜に豊富に含まれ、免疫力の向上や老化抑制にも効力を~」
「大盛りの生の緑黄色野菜をモリモリ食べれば、ヘルシー問題なしというのは思い込みに過ぎなかったのである。」
「歩いていると、それだけで何か心配ごとやモヤモヤが晴れていき~」
「一歩でも多く歩くこと、それが一日でも二人の健康寿命を延ばすことにつながる。」
「マグネシウムやカルシウムといったミネラルは、海塩や岩塩などの天然塩でなければ摂取できないのだ。」
「人間の身体を構成するものはいたって単純なのだから、物事も単純に考えればよい。シンプルライフこそ、理にかなっているのだ。」
「当てにならない未来を思い煩うより、当てになる過去とつながっているほうが安心できるようだ。」
「いったい世の中、どうなっているのか。」
「体力や知力の衰えを補って余りあるもの、それが余裕なのだ。」
「~欺瞞だらけの醜い“美しい言葉”に終わってしまうからだ。」
「はやり言葉で言えば、幸せは“ウェルビーイング”というカタカナ語で表現されるのだろうが~」
「要するに、日本そのものが縮み、国力が衰え~」
「~もはやパンデミック以前の日常に戻ることはできなくなりつつある。」
「自己肯定感とは、自分はこの世に生きていていい、社会の中に居場所があり、だから自分という存在を率直に認めることができるという感覚である。」