寿司

■「人間的」(外山滋比古著、芸術新聞社、2012年)を読む。
 この人の書物は何冊か読んでいる。今回のは、何か斜に構えているようですんなり入り込めなかった。しかし、子供を成長させるためには、負の経験をさせなければならない。それも早いうちの方がいい、を読んで目から鱗が落ちるようであった。自分の子供3人は全て挫折を経験させている。当時は、打たれ強く自立力を付けて欲しいということであった。自分の経験もあった。自分の青春時代は挫折の連続であった。これが、いいかどうか死ぬまで分からないが、ぬるま湯に慣れさせることはしなかったつもりだ。上の子は、早々に家を出て自活しながら学校に行っている。まあ、正解だったと安堵している。
 『本ばかり読むのが能ではない。忙しくても、昼寝する。』
 立場の違いという章が面白かったのでそのまま抜粋することにする。
この人と、一緒に見舞いにいこうと誘うと:
『そういう残酷なことはするにしのびない。わたしはひそかに快癒を祈ることにする。』
『そんなばかな理屈のあるわけはない』
『いや、すこぶる誠実なんだ。自分が健康なとき、病気の人がいると、人間にはほのかな優越感がわいてくる。それを打ち消して快癒を祈るのです。わざわざ見舞って病人に淋しい気持ちをいだかせるのは酷です』
 『そんな話は聞いたことも無い』
 『いや、みんな己を偽っているのです』
年齢が高くなると節目でお祝いをする慣習がある。還暦は分かるし、喜寿も米寿もなんとなくわかる。99歳の白寿は良く分からなかった。これは、漢字の『百』から『一』を取って『白』になったという、シャレのような話であった。
余命を宣言されるのを平然と受け止められるのは超人である。いづれ死ぬことは分かっているが、その日時が分からないから勝手な望みをかけて生きられる。

■寿司
 肥満気味というか、完全に肥満の自分を気遣ってか、自分たちが好きなのかわからないが、お寿司は月に何回か食べる。
 今朝の朝食もお寿司であった。昨日、家人の帰宅が遅く、スーパーの半額をいくつか買ってきて、冷蔵庫に入れてあったのが、自分にだされた。何か物質を口に入れているような感じだ。
 今日、廻らない寿司を食べる機会があった。付け出しも良かったが、お造りの盛り合わせが来た時には、感動した。続いて、握りがどんどん皿に置かれる。個人的に一番はウナギのかば焼きであった。今年は高いだろうに。
 一生の内に何回もない機会であった。