人の過剰在庫

■「烈風のレクイエム」(熊谷達也著、新潮社、2013年)を読む。
 潜水を仕事にしている人の話である。何か偶然が重なっているのもいい。
「海で死ねば本望だ、などという聞こえのよい言葉は、人間側のおごりであり、海に対する冒涜だと思った。」
「酒を満たした湯呑を一人で傾け続け、酩酊してくるのをひたすら待つ。」

■人の過剰在庫
日経ビジネスからの抜粋である。
「面倒な人は、いらない!」というのがホンネ。
「自分で考えて動けて、自分で仕事を生み出せる社員じゃなきゃ生き残れない、ってよくいいますよね? 私は『そんな社員、どれだけいるんだ?』って、疑問に思いますよ。
 「自分で考えろって言うのは簡単ですけど、それができる人間ばかりではない。ところがそれが分からない。だから、“他のヤツを雇えばいいじゃないか”って話になる。“数字”に翻弄されすぎているんじゃないか、って。そう、思えてならないんです」
 「ちゃんと会社に利益をもたらしているのか、自分で考えろ!」
 「どうやって利益をもたらせばいいのか、自分で考えて動け!」
 「仕事とは自分で作るモノ。新しい仕事をもっと提案すべき!」
 「何? それができない? だったら『追い出し部屋行きだ!』」。
「自分で考えられない=使えない人」→「だったら、いらない!」なんて方程式が出来上がってしまうのだろう。
 いずれにしても、“数字”にばかり翻弄され、視野狭窄に陥り、近視眼的が、今の日本社会には増殖しているってことはないだろうか。
それに、今は働きの悪い人であっても、かつては会社に利益をもたらしていた時代だってあったのではあるまいか。何一つ給料に見合った仕事もしないままで、ゾンビのように50歳近くまで生き延びてきたような人もゼロではないかもしれないけど、それってごくごく一部の社員で、10人に1人もいないはずだ。
 周りが次々とリストラされ、「自分もリストラされるかもしれない」との不安を感じた人は、リストラした人と同じくらい精神的健康度の低下が認められることが、多くの研究で認められているが、その逆の効用が、あるのではないかと。
 組織の景色というのは、上から見下ろすより、下から見上げたほうが、よく見える。「上はちゃんと自分たちのことを考えてくれている。だったら、自分たちもちゃんとやろう」と、下から見上げている社員たちは、動機付けられる。」

■塩ラーメン
 家人と子供が東京へ行っており、夕飯は外食になった。お世話になった方のお通夜で遅くなったのでゆっくり食べることのできる中国レストランへ向かう。しかし、食べるのはラーメンである。塩味であるが、登録レベルであった。一食で2千円は使い過ぎたかと、少し反省である。