古洞の森

■古洞の森
 天気予報では午後から崩れるとなっていた。そのため、いつもはバスで向かう古洞の森も自家用車で向かった。久しぶりに双眼鏡を手にしたので、まずは田尻池でカモの顔でも見ようかと向かったが、カモがいないばかりか、池の水が抜かれてしまっていた。
 そのまま、古洞の森に向かう。天文台側から歩いて中部北陸自然歩道を歩く。

 ところが、鳥影が薄い。気候は曇りであり、涼しい優しい風が気持ちいい。こんな日は貸し切りかと思ったら、後ろから声がし振り返るとご婦人の二人連れがやってくる。しかし、歩いているところは自分が歩いてきた道ではなく、上の稜線を歩いている。地図には示されてなかった。その道は、ルートの半分ぐらいのところで合流していた。
 どこから登るのか、詳しい地元の人に聞いてみようと思う。
 撮影できた鳥は、シジュウカラヤマガラコゲラのみで、声で確認したホオジロ、ウグイス、ヒヨドリを含めても寂しい成果になってしまった。
 池に中には、マガモコガモハシビロガモが見え、双眼鏡で順番に見ていると白いモノが写った。これは、珍しい鳥に違いないと撮影して確認したら、何かのボトルであった。
 一周回ることを諦め、途中からドングリ橋経由で戻ることにした。
 カワウのコロニーである。

 植物では、サクラが良かったね。キンキマメザクラともう一種咲いていた。花と葉が同時に咲いていたので、たぶんヤマザクラであろうと思っている。
 ショウジョウバカマタチツボスミレも歓迎してくれた。
 小さい白い花が咲いていたので、撮影し調べているが、図鑑3冊を一枚一枚めくることに根負けしている。これじゃ、ダメじゃん!

 指摘を受けましたので追記します。
 セリ科のセントウソウ です。
■「老骨の悠々閑々」(半藤一利著、ポプラ社、2015年)を読む。
「バカをやるやつがいなければ、この世はさぞ退屈だろう」
「記憶というやつは、すべてを濾過して、つねに美しいものにする」
「老耄・・・これをオイボレと読む。〜老いにほれている。」
「〜自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。」
「ニホンかニッポンか〜自分の国の名を何と呼ぶのか。」
「もう七十回ぐらいの再読です」(井上ひさし
「この「長閑(のどか)」は、漱石がもっとも愛した心持ちであった。」
「物は見様でどうでもなる。音も聞きようでどうとも聞こえる。」
「三昧はふつう<さんまい>と読む。〜上に言葉がつくときは<ざんまい>と濁って読んだ。」
「最初からやる気のないものも退屈であった。」
「未だ行じてもみずして退屈する人は愚中の愚なり」
「四苦八苦を百苦に重ねて〜百句は、4×9=36、8×9=72を足しての漱石先生の洒落で、百はいっぱいという意味である。」
「やっぱり科学万能の世は野暮の骨頂であるな。」
「語彙が貧しくなるのは、日本の財産が貧しくなるのと同じである。」