火曜大工

■火曜大工
 退職してから困ったことがいろいろあるが、その一つに曜日が分からなくなるということが起きている。現在も進行形である。だた、分からなくてもまったくといっていいほど問題が起きないということも分かっている。
 朝からいい天気である。朝食時にゴミ出しを指示され、火曜日と認識できた。
 今日も、送り迎えで一日が終わるようだ。8時、9時40分、11時、15時、18時と送り迎えが発生する。この隙間時間が自分の時間である。
 天気がいいので剪定ゴミの資源化活動を行う。作業中に、剪定クズを暖炉に使ってもらっている家の奥さんが通られて、お礼を言われる。
 せっかく、育った枝もただゴミとして廃棄されるよりは有意義に使ってもらった方がいいだろう。
 汗ばむ中で休んでいると三番目から電話があり迎えに来いという。アルバイト先でダウンしたらしい。まあ、若気の至りでこれも本人の為になろうと何も言わず。
 送り迎えの計画が無くなったので、気になっていた台所の段差解消を行うことにした。これには、厚さ10mmほどのべニア板をノコギリで切断しなければならない。
 実家に残材があったので、コンベックスで長さを測り切断する。目はまっすぐ上、垂直に切るということが体にしみ込んでいる。試験の時に丸太を切る作業があったが、いくらやっても切り口に段差ができてしまったことなど思い出される。
 その後は、一番近いスタバに行く。唯一の自分の時間を確保する。平日は空いていて過ごしやすい。ディカフェを頼むと、試供品をくれた。インスタントですか?と聞くと、コーヒーエッセンスですと言われる。まあ、無料ならいい。
 少し昼寝をしてから家人を迎えに行くが、日が暮れるのが早いことに今更ながら驚く。

■「告白」(三島由紀夫著、講談社、2017年)を読む。
「〜漢文学の教養がだんだん衰えてきました。それで日本の文体が非常に弱くなりました。」
「生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。」
「私はそのような思想を保証するものが、筋肉しかないことを知っていた。病み衰えた体育理論家を誰が顧るだろうか。」
「さて、私は鉄を介して、筋肉に関するさまざまなことを学んだ。それはもっとも新鮮な知識であり、書物も世故も決して与えてくれることのない知識であった。」
シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛えられた筋肉と関係があるのだ。」
「苦痛を引き受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いわば肉体的勇気とは、死を理解して味わおうとする嗜欲の源であり、それこそ死への認識能力の第一条件であった。」
「死と危機への想像力を磨くことが、剣を磨くことと同じ意味を持つことになる〜」
「私をして、自然死にいたるまで生きのびさせるものこそ正に言葉であり、それは“死にいたる病”の緩慢な病菌だったのである。」
「私は言葉の本質的な機能とは、“絶対”を待つ間の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すように、書くことによって一瞬一瞬“終わらせて”ゆく呪術だと定義した〜」
「花がもはや地上の種子の時代を忘れ去っている・・・・・」