英語公用語の衝撃

■「孤愁」(新田次郎藤原正彦著、文藝春秋、2012年)を読む。
 665ページと長編であった。親子で書き継ぐという初めての試行にも興味があったが、新田次郎のファンであったというのが正直だろう。最初から『モラエス』というポルトガルの主人公が登場する。どうもカタカナは苦手だと思いながら読み進んでいった。これは実在の人物を丁寧な取材や調査を通じて小説風にしてある。お見事である。英語、フランス語、中国語、日本語に精通している数学者であり、外交官であり、作家である。そういえば著者も数学者である。毎日朝食前には、散歩をする。山があれば山へ行く。里山程度であった。日清、日露戦争のころの話も出てくる。主人公が出会った女性とは全て別れることになる。これも事実なんだろうか。三分の一を越える様になってからは、完全に物語のなかに没頭していた。どの章から引き継いだのかが分からないほど鮮やかであった。久し振りの長編を読み終えて満足である。

■英語公用語の衝撃
日経ビジネスからの抜粋である。
「本業で会社に貢献しているのに、英語ができないだけで処遇が悪くなるのは不公平だ」
「英語が必要な部門だけでやればよい。業務に支障が出る」
 楽天を愛し、懸命に働く社員の多くが「英語化」に強いストレスを感じていたのだ。
かつて日本の生産現場でも、今の楽天と同じような光景が見られた。トヨタ自動車から産業界全体に広まった「カイゼン活動」だ。現場の社員が全員参加で知恵を出し合い、車やテレビの生産工程を効率化していった。この活動は日本メーカーの品質やコスト競争力を高めるだけでなく、社内の一体感を醸成することにも役立った。
 その一体感で世界市場を席巻した日本の製造業だが、やがて生産現場は請負や派遣の非正規社員で埋め尽くされ、多くの企業ではカイゼン活動も形骸化していった。コスト競争を勝ち抜くために、やむを得ない選択だったとはいえ、失ったものは大きい。