てめぇの人生

■「山をはしる」(井賀 孝著、亜紀書房、2012年)を読む。
 副題に1200日間山伏の旅となっており、山岳マラソンかと思ったら違った。修験道と言われるところを体験するのである。有名な大峰山の奥駆けは最初から出て来た。詳細な記述に臨場感あふれる思いだ。自分の目的が少し見えてきたかなというところだ。
 320ページ以上もあったが、紙質が悪いのか軽くて良かった。
「〜闘いに生きる者達も〜その多くが山に籠もって心身を鍛えてきた。」
大峰山脈を吉野から熊野まで実質7日間で歩き通す工程は、その距離170kmとも言われる。〜地下足袋を履いて歩くことが決まっており〜うんこをする時間もない。」
「わずか9日間で人生観すら変わりかねない濃密で非日常的な時を味わうことができる。」
「感得とは、感じとること、信心が神仏に通じて願いが叶うことをいう。」
「ここでは背負って来たもの、地位や名誉、しがらみ、因縁、悩み、すなわち今までの自分を捨てて身をゆだねる。言われるがままに、ただただ歩く。それが安行楽につながる。」
「黙々とただ歩く。それだけだ。」
「夜間歩行は感性が磨かれる。理屈ではない。」
「山登りをされている方なら分かると思うが、落葉というのはじつに厄介なもので〜場所が場所なら、それで一巻の終わりだ。」
「皆と一緒に歩く。そこに意味がある。ひとりじゃないから、休めないから頑張れる、いや頑張るしかない。そんな状況下だからこそ、自分の限界を超えられる。」
「歩いて、歩いて、汗まみれ、泥まみれになって、自分をさらけ出し尽くしたところではじめて六根が清浄される。」「サーンゲ サンゲ ロッコンショージョー」
「いったん山に入ったらその山の水を飲む」
「俺たちは効率のために生きているわけじゃない」
「山は日々変化している」
「奥駆修業とは、歩き、掛け念仏を唱え、お経を読み、そして人に揉まれること。」
「ただ驕ってはならない、生かされているという思いがなければ・・・」
「仕事もちゃんとして修業する。そこに意味がある」
「まさに我々は忍者か、はたまた天狗なのである。」
「山伏は山に入り修業することによって山の霊力を身体に取り込み、神霊の器いわゆる霊媒体質となる。」
「山に入って修業するには、まずそこで生きて行かなければならない。すると、食べられるものの見分け方から、その調理方法、食し方、はたまた薬草についての知識が自然に身に付く」
「言うまでもなく普通登山といえば、交通手段を使って登山口まで行き、そこから登るのだが、〜家から自分の足で頂上まで歩くのがそれに当たる」
新穂高温泉から登り始め、槍平小屋、飛騨乗越、槍ヶ岳、大喰岳、中ノ岳、南岳、北穂高岳涸沢岳奥穂高岳西穂高岳、西穂高山荘〜を18時間の日帰りで達成してしまった。」
「行者とは何か。それは普段の心持と、すべてのベースとなる日常の生活に根付いた精神のあり方ではないだろうか。」
「良いも悪いも、頂上を取る、征服するといった感覚で山に入る登山家には起こらないだろう。」
「富士山の大きさを実感したのであれば、静岡県の御殿場口から登ることをお勧めする。」
「前を歩いていた人の身体が突然、ふわっと20センチほど浮いたのだ。」
「恥ずかしながら、不惑の歳になってようやく掃除の意味と大切さを知るとは、ずいぶんとかかった。」

■てめぇの人生
日経ビジネスからの抜粋である。
 「小さなことでも具体的に動いてみれば、具体的な答えが出る。どう動くかは、千差万別。自由に決めて動けばいい。だって、自分の人生だ。自分を信じて、今までやったことのないことをやってみればいい。
 その具体的な行動を放棄した人が、「生きている意味がない」とか、「自分はなんて不幸なんだ」とただただ天を見上げ、がんばろうとしている人たちの足をひっぱるような陰湿な言動をするのではないだろうか。
 思い通りの人生にはならないかもしれない。でも、前に半歩でも、4分の1歩でも進んでみれば、それまでとは違い景色が見えることだろう。
 人生の道なるものが存在するならば、それは直線コースじゃない。曲がりくねっている道ともちょっと違う。恐らくそれは螺旋階段のようなもの。人生は螺旋階段。前に進みさえすれば、必ずや光が見えてくる。」