気のせい

■気のせい
◎春曇り風の便りか気のせいか  禅智
 朝5時に目覚める。曇りのようだ。家を出る6時過ぎは、車はライトを点けて走っていたが、歩く分には十分に明るい。寝雪も小さくなり、もう少しで無くなるだろう。
 こんな日は、何か感じるかと思ったが、目に映るものではなく、予感が蠢いている。まだ雨水も過ぎておらず、啓蟄もさらに先なのに何が蠢いているのか思った。
 物心がついて半世紀以上経つが、その間、似たような思いをしたと覚えている。うる覚えであるが、不思議なもので予感を感じてから少し経って起こっていることもあったようだ。具体的には忘却の彼方である。はっきりしているのは、タイムラグがあるということだ。
 今日も何か予感を感じた。いいことか、悪いことは分からない。そう思わせる季節になったのだろうか、定かではない。春の予感とくればワクワクが付き物の方がお似合いだが、ほぼ気のせいであろう。
 昨日から大きな缶に入ったポップコーンがテーブルの上に置いてある。子供がいま人気の原宿の店に一人で行き40分待って買ってきたものだ。値段を聞いてびっくりした。2,800円である。TDLでも驚いたが、それ以上である。
 100円菓子としても売っているのに・・・・・・。

■「朝露通信」(保坂和志著、中央公論新社、2014年)を読む。
「緑の色はすべて違う。何色あるか数えられない。緑の違いを見るだけで楽しい。」
「〜後で作った記憶〜」
富山県の人たちの話を聞いていると立山連峰のことを誇りにしているように感じられるが、あれは誇りにして当然だ。」
「二十九年間毎日30キロも歩いて〜」
「町が栄えるのは車が走ることではなくて人がそこを歩くこと」