海老江海岸

海老江海岸
 何か疲れが残っているので、午前中は部屋で過ごす。昼近くになったら日差しが出て来たので、外出することにした。自家用車が使えたので日頃行かないところを計画した。
 途中、写真展も予定に入れツグミキジバトなどを撮りながら向かう。
 写真展は、知っている方が多かった。どうも駐車場がなくやむを得ず路上駐車したのでそそくさと見て回る。

 このライチョウ写真が一番良かったと思う。主張が伝わる。

 次に海老江海岸に向かう。シギやサギの仲間を期待したが、ゼロであった。浮かんでいるのは、ヒドリガモカルガモだけである。ウミネコを撮る。(図鑑更新)


 海岸線を歩いて見る。トビしかいない。それでも歩く。発電所の煙突が大きく見えたので戻る。イソヒヨドリっぽい鳥が飛んで来た。近くに行っても逃げない。普通のヒヨドリであった。

 今日は不健康な生活になってしまったので明日からはまじめに歩こうと思う。
 今回もスタバからWi−Fiを使ってアップした。コーヒー代で破産しそうである。カフェインのとりすぎは体に悪いので、今日はアメリカーノにした。いわゆるお湯割りである。どのくらいお湯を入れるかと目の前で見ていたが半分ほども入れる。つまり普通のコーヒーは半分なのにこれで、20円高いのである。特別なお湯でもつかっているのか、人件費の二度手間のためなのかわからないが、なんか納得いかないなあ。コーヒーの香りとかコクというものをどう考えているのだろうか?
 まあいい、スタバはコーヒーを味わうところではなく、サテライトオフィスだと思うことにしよう。(ああ、薄い!)

■「好運の条件」(五木寛之著、新潮社、2015年)を読む。
「なにが気持ちいいといったところで、熱意のこもったお世辞をきくのは格別です」
「甘言を好む者は、弱い人間である。」
「私たちは日々、心が錆びるような思いを重ねながら生きている。」
「自転車という字は、自ら転ぶ車と書くではないか」
「人は慣れると手ですることを足でするようになる」
「老人は軽くあれ」
「記憶のゴミ屋敷にならないように、どんどん盛大に忘れよう」
「柳田邦男〜ヤナギタと濁らずに発音〜」
「懺悔をザンゲと濁って読むのは誤りで、正しくはサンゲと読む〜」
「人は自然に生きていれば、五十年もでばいいほうでしょう。いろいろ無理をして、六十年、七十年、八十年と生きるのです。」
「老いるとは、干からびることです。」
「要するに、人間不信が現代の私たちの病なんです。」
「自分の体が、天地自然のリズムと同調している〜」
「体型がねじれていれば、性格も歪んでいて当然です。」
「人は時に見栄で命を失うこともある」
「平均的な人間もいないし、平均的な人生などというものはない。この世には、人それぞれの生き方しかないのである。」
「〜短期記憶のおとろえが老化のはじまりだといわれる。」
「生き方よりも逝き方〜」
「はかなくもあり、しぶとくもあるこの命」