学科試験

■学科試験
 昨日の下校時に足の指が痙攣していた。まあ、そのうちに治るだろうとゆっくりと入浴し早めに眠りについたところAM3時ごろに右足全体が痙攣した。ふくらはぎとふともものダブルパンチであった。居間にいけば痙攣用の漢方薬があるが、立てそうもない。脂汗をかきながらあちこち伸ばしているうちに、動かさなければ痛くない状態になった。今必要なのは、ドクターストップではないかとまじめに考えていたが、ちょっと鼻水や咳が出る程度で医者へ行くような状態ではない。
 流石に今日はコルセットを付けて登校した。
 学校は受験モードに入っている。実技の方は、整地と解体であった。整地は余裕のある人でも10分ほどであるが、今日は2時間かけて終わらなかった。
 そもそも、GL(グランドライン)がデコボコに対して図面ではGLからの寸法が定められている。ということは、GLを作らなければならないことになる。これは予想外であった。レベルで測定して水糸が張ってある3cm高の線を基準にして3cm下で均等に土地をならすのである。
 解体は次回の生徒ように結び目ギリギリで切る。解体後は、全体をほぐしやはり整地であった。中腰で長い間の作業で体に堪えた。
 午後からは学科である。これも試験用である。まずは、歴史から始まった。
 寝殿造りの前には桜と橘が植えてあり、それぞれ左近桜、右近橘という。「近」は近衛府にちなんでいる。
 庭に水を流す方向には、四神説がある。四神とは、東西南北の順とすると、清龍、白虎、朱雀、玄武になる。東の清浄な水を屋敷内に引き入れ、諸々の不浄を洗い、西へ流すのが良い。風水に関係しているようだ。
 水源より池に流れ込む遣水はうねうねと曲がり、曲水の宴の場になった。これは、川上から酒の入った盃を流し、到着するまでの一句できれば酒を飲むことができるが最後まで誰も出来なければ、最後に人に渡る。このことから、お流れを頂戴という言葉が出来たという。
 竜安寺の石庭について、『虎の子渡しの庭』ともいわれる。これは、子供を3匹連れた母トラがいる。子供の一匹は子供だけにすると他の子どもを食べてしまうので一緒にできない。そこで、川を渡る時、口に子供をくわえるのであるが、その場合の順序を教えているということである。少し考えればすぐ分かる。頭の体操である。
 竜安寺に蹲踞(つくばい)という手を洗う石でできたモノがある。これは丸い石の真ん中を四角く掘ってありそこに水をためるようになっている。その□の周りに文字が掘ってあり、□を口の漢字の一部になぞらえて、『吾れ唯、足るを知る』と読めるようになっている。
 いろいろな名園がでてきて少し混乱する。

■「根源へ」(執行草船(しぎょうそうしゅう)著、講談社、2013年)を読む。(その3)
「孤独な自己を生きることによって、初めて人間は自己と他者に真に出会うことができる。」(道元
「葛藤は苦痛の幾何学
「環境を破壊したくない、または何がなんでも平和に暮らしたいのなら、我々は運命を捨てて、つまり『人間』をやめて『環境に生きる動物』になるしかないということです。」
「進化は非常に精神的・哲学的・宗教的な概念であり、進歩は物質的・文明的・歴史的な概念である〜」
「苦痛のない読書は、読書ではありません。読書とは、ひとつの挑戦なのです。」
「進歩は間違いと錯覚の上に成り立っている〜」
「進歩とは、すばらしいものでも何でもなく、その本質は人間のなまけ心なのです。」
「自由・平等・博愛は宗教真理であり〜人間に対してその生活の隅々に至るまで、献身や犠牲を求めていた〜その厳しい部分を削ぎ落としたのが民主主義思想なのです。」
「我々は一日も早く、物質主義から抜け出し、大量生産・大量消費の文明を善とする社会と決別し、還元的な循環思想に基づく、分を弁えた暮らしをしない限り、間違いなく破綻します。」
「水は人間に原始を思い出せる働きがあると言われています。それは人間が、海から生まれたからなのです。」
「純粋に生じたものは、ひとつの謎なのだ。」
「民主主義思想の中に含まれている自由・平等・博愛は本当に阿片です。」
「自由は責任を意味する。ほとんどの人が、自由を恐れるいわれがそこにある」(バーナード・ショウ)