敬老の日

敬老の日
 今日は敬老の日である。まるで自分のための日ではないかと思っている。だいぶ、頭が硬直してきたのか、敬老の日は9月15日という習慣が抜けない。
 思えば、自分が社会に出ようとしている時の定年は55歳であったと記憶している。それが、国家経済の運用失敗や予測を誤りそのつけをを国民に回し、定年が60歳に引き上げられた。この時に思ったのは、冗談ではない、国家的サギではないのか、であったと記憶している。そして、もうすぐ定年という歳になって年金支給年齢が65歳になり、定年も65歳がささやかれている。
 現在の政策は税金をたくさん納めさせようとやっきになっていると思っている。まあ、天文学赤字国債が利息だけでも毎秒単位で増え続けている時代である。
 人口減少など自分が学生時代に既に叫ばれていたのに、誰も責任を取らず、最終的に我々に押しつけている。
 そのためのキャンペーンなのだろうか。まず、長生きになって平均寿命が延びている、百歳以上も12万人になっている、というのがある。長生きになったから働けとはどういうことなのかわからない。次いで、今の高齢者は昔の7割程度で考えなくてはならないとう話。つまり、60歳の人は昔の42歳程度の若さだという、だからせっせと働いて税金を納めよといいたいのだろうか。そして、エンプロイアビリティーという概念である。これは、試験のヤマだったのでよく覚えている。つまり、60歳を過ぎても企業に雇われる能力を付けなさいということである。会社に残れた人は勝組で残れなかった人は負け組ということらしい。その結果、精神を病んで生き甲斐を無くし、人生を棒に振った人に対しては自己責任でしょうと片付ける。このような一般論が自分に合うとは到底思えない。そのため、59歳で退職してやった。
 昔の人と比べて何か得なことがあるのだろうか?むしろ逆ではないかと思っている。昔の絵に米俵を担いで働いているのがあるが、確か米俵は60kgではなかっただろうか。自分の場合、あんなものを担いで歩けるはずはない。
 60歳前後の人は、まだ若いと考えているのだろうか?どこから見ても立派な老人が若作りして人前に現れる様は、滑稽さを通り越えて憐みさえも感じる。
 テレビでは、サプリメントのCMが多い。自分は効果があると考えている。いわゆるプラシーボ効果(偽薬効果)である。効くと思って服用すると小麦粉でも病気がなおることがあることが立証されている。自分のように、胃液で分解されて大腸へ行くだけだと思っていると効かない。かなり割引して宣伝しているが、無料でもいらないと考えていると無料という商品まで出て来た。いらないものはいらない。急ぎチャンネルを替える。
 敬老の日なので、いろいろ考えて見た。
 今日マックドで7時から10時限定で60歳以上にマフィンと飲み物無料でもらえるという情報をつかんでいた。7時半ごろ行くと、似たような目的の人が2名おり「シルバー」と言っていた。そして、お飲み物は何かと聞かれていた。自分もそれにならって、「シルバー」と言ったら、年齢を証明するものを持参くださいと言われた。面倒くさいで止めようとしたが、買えば300円ほどするので、免許証を持って年齢の解説までしてゲットした。
 昼は、図書館へ向かい本を借りた後、フェリオで敬老の日のイベントでもやってないかと向かうと、騒がしい。「シメタ!」と思い覗くと、ファッションショーであった。これには声がでなかったね。さあケーローと帰路に着いた。
 昼は、性懲りもなくラーメンを作る。今度は違うスーパーで買って来た。肉の小パックがなかったので、内輪で一番少ないの買ったが、結構なボリュームである。店のよりも旨いと思っている。ミョウガの甘酢漬けは全体が紫色に浸かり絶品になった。