慌てる乞食

■慌てる乞食
 自分はこのまま順調にいけば老後破綻確実である。その後は、乞食になるのだろうか。それがどうした!自業自得ではないか!ざま〜見ろ!である。まあ、成るようにしかならない。
 今日は法事である。朝、家人を職場へ送った後、いつもならゆっくりとくつろいでいるはずであるが、お寺さんが来られるので実家を温めておかなければならないと、帰宅し準備をすることにした。ファンヒーターに新しい灯油を入れて点火を確認する。
 約束の時刻になってもお寺さんが来ない。まあ、いい。少し遅れているんだろうと、ファンヒーターの前でトドになる。
 3時間も待っていたが、来ないので連絡すると「忘れていた」という返事である。まあ、おおらかでいい。おかげで、ゆっくりろくでもないことを考えることができたし、お布施が浮いた。
 天気がいいので、こういう日は散策に限る。久しぶりに呉羽山を歩こうと向かう。

 ビジターセンター前に駐車し、尾根道に向かう。いい気持である。散策途中で白い花が咲いている。

 これは、チャノキの花である。チャノキは今頃花を咲かせる。その時、昔計画していた企画を思い出した。「呉羽山ティーパーティ」という企画である。概要は、散策しながらお茶摘みをし、頂上でお茶を作ってお菓子を一緒に味わうという内容である。しかし、お茶の木が分かるのかという話で一度廃案になった。
 花が咲いておれば木が分かる。まあ、造園学校の先生なら花が咲いてないと樹種が特定できないなら『アウト!』と言われるところである。
 そこで、計画を変更してお茶の葉を摘む。そのまま自宅に戻り、お茶の数枚を十分洗ってきれいな葉だけを煮出した。この樹の病気にはチャドクガによる症状があるので、裏表を見ながら選別する。タイトルは「午後の緑茶」にしようと和菓子も買った。
 しかし、葉を煮出したのを飲んだが、喉がひりひりして毒ではないかと思われる飲み物になってしまった。これでは失敗である。時間もなかったので慌ててしまった。
 ネットで検索してみると、蒸して、揉んで、焙じるらしい。順番が逆ではないか。まず調べてからではないかと思われるがこれにも根拠がある。
 あるサバイバル番組でお茶と思われる葉を煮出して飲んでいたことが記憶に残っていた。なお、ネットによれば葉を煮出してもお茶にならない書いてあった。

 お茶の葉はまだ残っているので、そのうちに再トライしてみたい。

■「ガソリン生活」(伊坂幸太郎著、朝日新聞出版、2013年)を読む。
「自分の行動をそこまで細かく、発信して、何の意味があるんだ」
「自分のことが一番大事、いつも自分が大変、他人の不幸はすぐ忘れる。それこそが人間の心だ。」
「たまたま自分より体が小さいからといって、子供のほうがじぶんよりアホだとは限らない」
「愛情を与えないで、金だけ渡していると人間ってのは、ああいう怪人になっちまうんだな」
「暇人をなめるなよ!」