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■挨拶
元旦である。明けてもめでたいことはない。いつもの一日が始まる。
多くの店が休んでいる中で年中無休のコーヒーショップは、貴重な存在になっている。
昨日の約束もあり、入店する。
注文カウンターに立つと、スタッフの女性から、丁寧に挨拶された。
「明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします」
それがきっかけで、世間話もする。
相手は自分のことを認識しているようであるが、自分は、この年代の女性は、全て同じに見えるので、そのことを悟られないように振る舞う。
ワンモア券を持参していたので、
「私、前は大和にいたんです」
などと言われたが、はて?高い確率で見ているはずであるが、見覚えはない。
自分は、昔から人を見る目が劣っていると自覚している。
昔から挨拶は、人間関係構築には、良いツールと言われている。
それを裏付ける経験がある。
車の出入りで気不味くなっていたご近所さんとも挨拶がきっかけで良好になった。
最近の若い方たちは、どういった挨拶をしているのだろうか。
自分たちの場合は、「おっす!」が一般的であった。
まあ、年賀状でも「あけおめ ことよろ」と書くくらいなので、短縮された言葉だろうと想像はするが、記憶にない。
■「うまれることば、しぬことば」(酒井順子著、集英社、2022年)を読む。(その1)
「六十代になったならば、家に溜まった物を捨てるなどして、終活開始。」
「終活は今や高齢者の嗜みとなり、“何となく死ぬ”ことはできなくなりました。」
「組織というものは、構成員の新陳代謝によって、組織の“永遠”を得ようとするのです。」
「実質“クビ”と言われているのに“卒業”などと甘やかな言葉で表現されることは、確かに気持ちが悪いもの。」
「我々は今、最期の最後まで自分らしくあり続ける努力をしなくてはならない時代に、生きているのです。」
「もしかすると個性を育てるのは、自由ではなく規制なのかも・・・・・・。」
「誰かに何かをあげるのが大好きだし、何かをもらったら返さずにはいられない。」
「お返しをしないと、あげた側に従属することになってしまう。」
「ウイルスと人類は共存していかなくてはならないというのに“戦う”だの“勝つ”だのと言うのはナンセンス」
「我々に課された最も大きな責務は、“不平を言わず、家にいる”ということであり~」
「加齢現象に抗うことを“戦い”と見なす傾向も、目だちます。」
「~老化に抗うべき、と人々の戦意を高揚させることによって、女性誌や化粧品の売り上げはアップするのでしょう。」
「~シワやシミがあるとそれは“負け”なのか~」
「我々は今も、スローガンによって動かされる可能性を持ち続けているのだ」
「~我々は、敬称さえ使用しておけば、問題の本質を見ぬフリができるという感覚に、慣れっこになっています。」
「~自分の姿を“より良く見せたい”という欲求は、恥ずかしいことではなく、一種の身だしなみのように捉えられることになったのです。」
「人間、中身も大切だが外見も大切だ」
「古いことって、そんなにいけないのか?」
「対して私達の今の生活は、経験値が積み上がらない仕組みになっています。」
「~日本人が抱く“言い切る”ことに対する恐怖心の強さです。」
「~非常事態下での“言い切らない”という習慣は、人々を迷走させたのです。」
「知識のアピールや知ったかぶりは、“枕草子”“徒然草”にも、田舎者の証として記された行為であり~」
「どうやらこの世では、思ったことをそのまま言ってはいけないらしい」
「実際、大正頃までの小説には、女性をも“彼”と書く作品もあるのでした。」
「謝罪会見とは、江戸時代における市中引き回しと同様に、悪事を犯した人を“見たい”という世間の欲求を充足させるために行われるイベントです。」