傲慢な高齢者

■傲慢な高齢者

 今日も予定はないが、朝から膝が痛い。朝シャン時に左ひざの痛みを感じた。これで思い浮かんだのが、疲労骨折である。この程度で歩きすぎなのか。まあ、歳も考えなければならない。「健康の為、歩き過ぎには注意ましょう!」の標語が頭に浮かぶ。

 まだ、原因ははっきりしないものの、今日で歩数の管理は止めることにした。義務感を感じるようになったら終わりである。

 朝は、ソーセージエッグマフィンにハッシュドポテトとアイスオーレを作る。店のハッシュドポテトは柔らかいのが多く不満であった。自分は、カリッ、カリッのが好きなのである。その上、塩は振らない。マフィンの方は、パンズも両面焼いたので、前回よりは美味しくなった。まだ2回分あるので、熟練していこう。

 出るのが遅くなったが、いつものセカンドオフィスに向かう。ラジオ体操の会場には小学生の姿を見るようになった。もう夏休みだろうか。ちょうど、出勤前と重なり道は混んでいたね。店に入る前に公園を通る。大きなタブノキを撮る。

 店に入ったら、ほぼ満員である。空いているところに座ったら、冷気がまともに当たるので直ぐに移動する。寒いので、今回もホットコーヒーになった。

 ここでも変な高齢者に出会った。カウンターに座り、周りに聞こえる音量で、ガラスに向かって話している。こういう場面はハンズフリーの方に多いが、イヤホンは見えない。スマホから声を出して相手と話していた。まったく、常識がない。30分以上の話ていたのではないか。自分の都合のみで相手を巻き込んでまたは利用して欲望を達成しようとする傲慢な高齢者である。早く逝って欲しいね。

 昼時間になったので店を出て豆腐だけ買う。

 今日はラーメンの日であるが、ラーメンの麺でソース焼きそばを作る。少し硬めに茹でた後、水洗い後に水を切る。食べて驚いたね、懐かしい味になった。確か、中央通り口の幸せな店の味に瓜二つであった。

 しばらく休んで、フォレストの準備作業を行う。暑いね。

 第二部である。歩数管理は止めたので行かなくてもいいが、毎週行っているのでその習慣である。いつもの常連さんがたむろされていた。

 明日から歩数管理をしなくなるので、また新たな日常生活になろうか。ならないかな。まあ、本能の導くままの生活になろう。

■「楽天家は運を呼ぶ」(高橋三千綱著、岩波書店、2017年)を読む。(その1)

「~全ての著作を読了した。」

「心臓に爆弾をかかえている彼女が、執筆の作業を続けるということは、命を削っていることなのだ。」

「~自分の夢は個人再生をすることだなといいきかせてきた。」

「この世は自分を見に来たところ。この世は自分を発見しに来たところ。新しい自分が見たい。仕事をする。」

「願い事をしては罰が当たるので、ただ、ありがとう、とだけ礼をいってそそくさと前を離れる。」

「~デリバティブ~分かったのは、連中は詐欺師であるということである。」

「どうも女性の書く、恋愛エッセイものを読むのが苦手なのである。」

「~荷風は自由に好きな小説を書くために、莫大な貯金をしていた。」

「運命とは性格である」

「大学病院で検査を受けると“来るのが遅かったのネ~”~」

「結局、自分のやってきたことは徒労だったんだな」

「君が人生で求めているものはなんだ」「感動です」

「人生にあぐらをかき、安定した話など、どうでもよい。~結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、優しく生きたか」

「年齢に逆らわず、無理をしない。いやなことはせず、楽しいことをする。」

「ゴルフなど老人の遊びだ、という程度の認識しかない人は度量の狭い人であり、人生の楽しみを味わうことを避けた気の毒な人である。」

「カネは追いかけてもだめだ、あとからついてくるものなのだ。」

「この方はいつも倍返しなのである。やりにくくて仕方ない。」

「~我々の不始末は自分たちでとるべきだ、という考えには私は同調できない。」

「反原発は偽善者、利己主義者にとっては心地よい響き」

「私くらいの歳になると、放射能など屁のカッパで~」