■ナンキンハゼ
朝から曇り空で、今にも雨が降りそうな天気であった。今日も家人と子供を送り届けてからが自分の時間になる。そこで、近くの公園に向かった。狙いは、ドイツトウヒのマツボックリである。しかし、一個も落ちていなかった。トベラの実を少し頂いて帰ろうとしたら、なんとナンキンハゼがあるではないか。
ナンキンンハゼの殻斗は干支の動物に使える。イノシシの牙に使ったのが懐かしい。しかし、自分が知っているナンキンハゼの樹は吉峰にあるが、高すぎて採取などは出来ない。遠いこともある。そこで、探していたのである。3年ほど探していたというか、今日のように偶然の出会いを待っていたという方が近い。
時期が遅かったと見えて、殻斗は全て取れていた。まあ、ここにあることが分ったので来年に期待しよう。
昼に帰宅したら、コロナのニュースばかりである。素人の邪推であるが、マスクの適用率と感染率が比例しているように感じる。自分は、歩いている時やフィジカルディスタンスが確保できる時にはマスクをしない。増えている原因として、こんなことは考えられないだろうか。歩いていると色んな考えが浮かんでは消える。たとえば咳をするというのは、肺の中に増えた悪いモノを排出するための身体の防衛反応ではないだろうか。これをマスクで押さえつけると、排出した方がいい悪いモノを自分で再び吸い込んでしまう。そうすると、増殖して基準値を越えてしまい突然発症するということにつながるのではなかろうか。まあ、これは戯言で偉い先生方の言う事は聞いておいた方がいいね。
■「崖」(大島直次著、牧歌舎、2020年)を読む。
「人はみな、何かに折り合いをつけて生きているのではないかと思う。」
「そこに落ちている木の葉のように生命体としての活動を停止し、無言で鉱物の側に仕分けされていく。」
「自由人として生きたいように生き~」
「死はなぜ恐ろしいかと考えたことがあった。~その先の世界は実際には存在しないのだ。」
「姉は人の数倍の速さで人生を生き、急ぎ足で立ち去った。」
「朝日を浴びるのは体に良いらしい~」
「自分のなかの時間が有限であることを納得しなければならない時期がそこまできている。」
「急ぐこともない、焦ることもない、必ずそのときがくる。」
「その頃の私は、いま目に見えているものは永遠に続くものだと考えていた。」
「人は場所で生きるのはなく時間の中で生きる生き物だと思う。」
「苦しむだけ、苦しんで、逝きました」
「一日生きて何ほどのこともなく、何もなしえず」
「毎日が、人生最後の日。」