■栗

 今日は仕事である。いつものように開店直後のセカンドオフィスに向かう。朝は車も通らず風も吹いていい気持だ。開店2分後に到着したが、指定席は埋まっていた。皆早いわ!

 常連さんはフルに揃った。話は栗の話ばかりで自分は中に入れなかった。もう何キロももらったり取りに行っている二人はほくほくである。お礼は微々たるものだという。まあ、自分の感覚からすればありえない。栗を拾うことの重労働がわかっているからだ。今日で最後になるらしい。そして、来年もお願いしますという会話が聞こえて来た。

 もっとも、提供している常連さんは、いつも貰い手がなくて困っていたのを助けてもらってありがとうと返している。見えた!と自分は内心ほくそえんだ。

 バス時刻になったので職場へ向かい、近くの喫茶店で昼食である。

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 休み明けなのか、品物の量は多めであった。ラインは半分だけ稼働させていた。つまり、2ライン分の作業者を休ませたようだ。それでも、2時間少しで終わる量であった。終わってから明日の持ち場を確認したら、違った職場になっていた。やったことがあったかどうかも思い出せない。まあ、何とかなろう。

 帰宅途中で歩数を確認したら900歩と出る。朝のセカンドオフィスまででも3500歩あるし、バス停から喫茶店までも1000歩ほどもあるし、ついに壊れたようだ。そういえば、最近電話も上手くつながらない。調べて見ると、隙間が空いているのが分かった。押せば接触が良くなりそうである。換えようかそれともこのまま維持するか、どうするか!

 帰宅後、疲れを感じ眠ったようだ。

 そういえば、今年は栗拾いに行っていない。

■「コモンの再生」(内田 樹著、文藝春秋、2020年)を読む。(その1)

「~国家というのは、人間が自分たちの問題を解決するために手作りした“装置”に他ならない~」

「口は出すが、金は出さない。用はいいつけるが、その責任はとらない。」

「技術革新はある種の産業を消滅させます。」

「貧困は自己責任だ」

「~最近の日本では人がなにか失敗すると奈落の底まで叩き落して、復活なんか絶対に許さない雰囲気があるように感じます。」

「新たな“世界標準”を創り出すことができる人のことを“天才”と呼ぶのだと僕は思います。」

「水に落ちた犬を叩く」

「戦後になって“旦那”たちが消えたのとほぼ同時期に消えた社会階層があります。“青年”です。」

「~“子ども”が“青年”を飛ばしていきなり“おじさん”になる。」

「目先の損得にこだわって巨大なリスクを看過する」

「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」

「国そのものが“落ち目”の方向に向かって、ずるずると坂道を下っている。」

「~“落ち目だ”と気がついた人たちが違う生き方を探し始めています。」

「降る雪や明治は遠くなりにけり」

「この“疑似的”な懐古趣味が何を意味しているのかは、はっきりしています。“未来に希望がない”ということです。」

「歴史は進歩のプロセスなんかじゃない。」

「~商取引モデルだと“消費者”はバカであればあるほど騙しやすい。」

「“変わらないこと”が学校の重要な社会的責務のひとつであるということを経験的に知っているからです。」

「希望を語れば嘘になるし、不安を語れば“非国民”と罵られる。」

「日本は賃金が安いので、自動化するより低賃金労働者を使い倒した方が儲かる~」