■つくし
今日は朝から忙しい。家人を職場に送った後に、子供の送り迎えが2か所ある。こういう場合は、帰宅しないで近くに停車することになる。いい天気で、風も気持ちよく吹いていた。
そうすると昼になる。今日は、実家の家の前に成っているつくしを調理することにした。もちろん、初めてであるし、前もって調べたりはしない。まあ、辛うじて、袴を取ることは覚えていた。天ぷらにすることにした。摘み取ったのを、洗う、十分洗う、しつこいくらいに洗う。犬の散歩道なので、徹底的に洗う。
先日、ニンジン祭りでのニンジンが大量に残っている。家人の実家にも持っていたらしいが、そんなにはいらない。最初は、毎朝ニンジンジュースが食卓に並ぶと考えていたが、そのような気配はない。そこで、自分で下ごしらえをすることにした。とりあえず、10本を取り出し、泥を落とし、皮を剥いて、3~4ぐらいにカットしタッパに入れた。そして、このなかから、ニンジンジュースを作る。容器に入れてさかさまにすると、刃が回って、そのままコップとして飲むことができるようだ。
ついでに、ゴボウも下ごしらえする。
蕎麦は、最悪の状態であった。伸ばすとバラバラになってしまったが、それでも出来るだけ伸ばし、切る。今回も、かきあげは上手く行った。
つくしは、あまり美味しいと思えなかった。調理方法がダメだったのだろう。
昼食後はマストにしている昼寝である。しっかりとは、眠れなかたっが、横になると幾分楽になった。昨日からの体調は、引き続き悪い。
迎えに行くまでに少し時間ができたのと、天気がいいので、木の実を処理する。そうすると、近所の方がやってこられ、何をしているのかと聞いたので、干支の置物を見せてここを作っていると説明すると、似たようなことをやっている知り合いを紹介してくれるらしい。
夕方になると、体調は悪化して来た。指先が冷たくなり、ゲップも出だした。これは、危険領域である。今日は早めにと眠ろう。
今日はコーヒーを飲んでいないばかりか、一円も使わなかった。
■「88歳の自由」(曽野綾子著、興陽館、2020年)を読む。(その1)
「人間八十代まで生きると、後はもう惰性で済む~」
「人間が完全な自由を得るには、期待されないことも条件の一つだ。」
「年を取ると、不自由になることも多いが自然になれることもある。」
「町を見るということは“人生を改めて見せてもらうこと”~」
「ひどい痛みはいつかよくなるか、死んで終わるかする。」
「願わくば、人生は静かな方がいい。」
「高齢者が、長生きすることは、確かに問題だ。」
「~職人さんをめざす仕事は、生きる営みと現実に繋がっている。」
「捨てる情熱」
「死が近くなるとケチになる~」
「~西窓があると~老年の鬱病を防いでくれる。」
「私たちは生前も死後も、できるだけ何も残さないことに決めていたのである。」
「中高年のよさは、大体、あと何年生きればいい、という推測が可能になった~」
「折り鶴を祈ることが平和に寄与すると思うのは幻想であり、自己満足である。」
「自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。」
「自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。」
「ないものを数えずに、あるものを数えなさい」
「人間は死んだ後に何も残さないのが最高~」
「~義理を欠ければ、自殺もしなくて済む。病気も減るだろう。」
「一生懸命、フル活動をしている人の挙動は往々にしてあまり美しくない~」
「~サバティカルイヤー(七年毎の休耕年)~」