役所

■役所
 朝から雨である。こんな日は、外出しても不毛なので”老化加速マシン”は不要と家人に告げる。久しぶりでゆっくりした朝を迎える。今日の予定は、役所へ出向き申請している書類をもらってくることである。距離にして3kmほどであろう。
 朝食は外食にしようとファミレスへ向かう。しかし、改装中で一週間かかるという。雨がややひどくズボンの前の色が変わっている。
 こんな格好では流石に役所にいけないと、コーヒーショップで朝食と食後の薬を飲むのと、ズボンの渇きを目的に1時間ほど過ごす。
 10時過ぎに役所に着いて確認すると”まだ”という、今日の日付ということは今日一杯という返事であり、前もって電話で確認するように促される。
 雨の中、帰宅し昼食後眠っていたら15時を回っている。少し片づけをして、17時前に役所に電話すると”まだ”という。
 また、明日の昼頃に電話確認をしなければならない。電話代は無料と考えているのだろうか。
 見た目さえこだわらなければ、雨の中を傘を差して歩くのも悪くはない。空気が澄んでいる気がするし、考えごとに最適である。しかし、その静寂をぶち壊すのが選挙カーである。いい歳をして常識というものが無いのか!こういう候補者には絶対投票しない。
 やたらと政務活動費不正をどなっているが、私は市民の一人として怒ってはいないし、必要なものは必要だと考えている。酒を飲んで話すことも立派な政治屋の仕事だと思っている。真の話や本音は会議では出ない。服装もそれなりにしなければならないし、遅くなれば帰りの代行費やタクシー代金も必要になろう。政治にはお金がかかると考えており、たぶんのグレーの部分があるのは当然であると考えている。あそこまで正直に暴露しなくても良かったのではないのか。他の自治体でもほとんどがやっていると推定している。また、政務活動費を使ってないとどうどうと話す人は活動してないのだから、立候補すべきではない。
 むしろ活動費に制限を設けることで市政がいびつになったり不要なところにばかり税金が使われることの方が恐ろしい。こんなものは、一定の金を渡して、使い道は問わないという方が正しい税金の使い方ではないか。
 この問題にマスコミが飛びついた。マスコミというのは、”人の不幸をによって生計を立てている人種”である。どんどんエスカレートすることだけを願っているだけのたけだけしい人種である。新聞やニュース報道は偏っているということを知ってしまっただけに、もうニュースは見ないし週刊誌なども買わないし、新聞もその部分は避ける様になった。

■「老いの風景」(石光 勝著、中央公論新社、2016年)を読む。(その1)
「経験というものがそれほど大切なものだとは思わない」(ラディゲ)
「〜高齢者には二通りの生き方があります。〜死という終着点を念頭において、そこから引き算のように老を確かめながら送る生き方。もう一つは〜仕事とか趣味とか健康とかの当面の目標に熱中しつつ、終着点にむけて足し算のように齢を重ねる生き方〜」
「苦学力行」
「〜芸術とは戦争であり、身も心もすり減らす苦闘なのだから〜」
「この世の中で、老人ほど不純なものはない」
「呆けと似て非なるものが、認知症
「〜廃人となっても、なお生命を大切にすることが醇風美俗のお題目〜」
「一人の悩みはすべての人の悩みである」
「ご飯を食べる化け物」
「耄碌している父親〜老いるということの究極は、これか、と思う。」
「〜老いは死よりずっと残酷だ。」
「絶食を初めて12日目に、母は亡くなりました。自死と言えます。」
「根くらべだな。だけど、自然にまかせるほかはないね・・・・」
「私の体が私から記憶を奪おうとしているなら、なんとしても防ぐ」
「最悪なのは、お前が死ぬことじゃない。お前が生き続けてしまうことだ。」
「〜営業部を外されて、〜資料管理課に異動〜退社するまでの待合室〜」
「削られていく意識を最後まで大切にしつづける〜」
「何となく道向こうは彼岸、こっちは此岸(しがん)のような気がして〜」
認知症になると、つらかった時代を思い出すことなく、記憶が濾過され、幸せな時の思い出が残るのではないか」
「〜パパの薬は、“優しさ”という薬なんだよ」