■木育研修
今日の予定は、午後から木育研修に参加することで申し込んでいた。最近の研修はリモートで行われることが多い。ただ、13時から16時30分までという長丁場である。
いい天気だ。朝は、車でセカンドオフィスに向い、暖房費の節約に努める。車から降りるとツルツル状態であった。靴で良かったようだ。
最近気に入っている歌が流れる。正式な名前は知らないが、「朝マックの替え歌」である。♪♪アツアツの朝が来た~から始まる。これを聞いていると心が和む。
昼近くになったので帰宅する。そして、昼食の準備である。13時までに全て終えていなければならないので、少し早めに作る。
今日は、蕎麦の日である。買い物もしてないので、家にあるもので済ませようと、山掛けネギ蕎麦にした。ネギは、トロトロで良かったね。この間のニンジンも早く使わないと痛んでしまうので、かき揚げにした。つまみ食いもする。これが、一番旨いね。自分の天ぷら類は、あらかじめ味が付いているので、そのまま食べることができる。
ゆっくりと休む間もなく研修が始まった。
前半は事例紹介であった。「森の幼稚園」「プレーパーク」「木育広場の活動」と活動されている写真が紹介された。前半が終わってから感じたことがある。
活動の主体は、ボランティアということである。自治体などから少し会場費などは補助がでるらしい。こういうことでは、直に尻すぼみになってしまうことが明らかである。タイミングは、今熱心に活動されている方が離れる時であろう。まるで、自分が所属している団体のようだ。参加者の狙いは、無料で行事を行うためである。もちろん、そこには、森林のことをもっと学ぼうとか、関心を高めたいという気は全くない。
実施する団体も、毎年同じである。内容も同じである。もう、活動の役割は終えたと考えていいと感じている。おまけに、予算がないだの、人数が多すぎるなど、いろいろある。自由で発展的な活動であるべきなのに、中身は不自由きわまりない。自分と似たような意見の方が何名かおられるので、その内、爆発して欲しいものだ。
なんか、疲れたね。
■「幸せの本質」(船戸崇史著、ユサブル、2022年)を読む。(その1)
「今の日本は死が隠されている社会です。」
「がんになるには原因がある。」
「自分の家で、自分らしく生き、自分らしく死んでいけることをサポートする医療」
「また人間力とは、“知識技術”と“共感力”と“胆力”の総和である~」
「~私はがんは敵ではない。それどころか、“生き方を変えなさい”とだけしか言っていない~」
「本来がんは治るようになっている。」
「身体は間違いを犯さない。」
「死は100%だから、死ぬことは考えなくても良い。生きることだけ考える。」
「耳は最後まで聞こえるといいます。」
「ガッツポーズで逝く!」
「遺伝子はただでさえエラーを起こします。そこにストレス、睡眠不足、食生活の乱れ、冷え、タバコや過量な飲酒といった生活習慣、そして紫外線や電磁波といった環境要因などが引き金となって遺伝子エラーをさらに加速させる。」
「がんに限らず、そもそも病気というものは“本来の生き方から外れているよ~”という呼びかけだと思うのです。」
「どんな人ががんになりやすいのか?~“自分を犠牲にして、ついついがんばり過ぎてしまう人”です。」
「~がんになる人で悪い人はいません。」
「がんの原因は“悪”ではなく“無理”なのです。」
「人は医療を受けるために生きているんじゃない。」
「~やりたいことをやるべきだと思うのです。」
「とりわけ屋久島のエネルギーは素晴らしいものでした。」