JAZZナイト

■JAZZナイト
 今日は家人が休みの金曜日である。朝起きて、ゴミ出し指令から始まる。外はいい天気である。朝食後、10時過ぎまで車が空いているとのこと。(要は、家に居るなということか)そこで、コーヒーショップに行く。途中、「死ねい!」と言われているような会社の看板に驚く。「SHINEI」となっている。
 マイカップを出しいつものディカフェを頼む。早朝はガラガラで集中できていい。
 お金を出すときに、アンケートを頼まれた。解答するとトールサイズが無料でもらえるというので、正直に不味いと回答した。最近、スマホで安く顧客情報を手に入れようという安直なシステムがあるが、何の気になっているのだ!、一切無視である。まあ、今回のように300円ぐらいもらえればしてもいいかなあ。
 帰宅後は、数年前伐採してもらったアカマツの根っこを掘り出すことにした。隣のマサキの根がはびこっており、まずはそこから処理しなければならない。しかし、これは重労働である。剣スコや植栽ゴテやらノコギリを総動員して取り組んだがはかどらない。主な理由は、体力がなくなっていることが大きい。1週間ほどかかるのではないかと思う。今度はクロマツを植えて、剪定もしっかりやり、立派な雪囲いをしたいものだ。
 今まで20年以上お付き合いのあったスタンドが廃業したので、ガソリンスタンドを変更しなければならない。しかし、最寄りのスタンドはクレジット決済であるので、カードを作らなければならない。無職で収入ゼロ円としたら案の定通らなかった。そこで、職業を造園業とし配偶者の収入で生活していると再回答したら審査に通ってカードが届いた。社会的信用が無くなったということを痛感する。
 そして夕方はJAZZコンサートに行く。秋の夜長はJAZZの生演奏で過ごしましょうという趣旨であった。もちろん無料である。

 10曲ほど披露された。知っているのも何曲かあり、ド・スタンダードナンバーのようだ。生の音楽はいいねえ。カタルシスである。ボーカルの声量と上手な発音、バックの素晴らしい演奏に聞きほれた。演奏は全員70歳を越えているように見えた。まだ、余韻が残っている。

■「荒野に立てば」(北方謙三著、新潮社、2017年)を読む。
「書くことは、生きることだ〜」
「どんなすごいやつだって、死ぬ時は死ぬんだ。」
「迷っている間、人はほんとうに生きていない。」
「喫煙率が著しく低下し、肺がんの罹患率は著しく上がっている。」
「恵まれすぎていたら、報いはある。」
「〜人生で接してきた動物は決して忘れない〜」
「老人は、老人と言われると、理由もなく怒るのである。」
「〜インターネット接続など、碌なことはないので〜」
「〜キーボードを打っている作家より、多分、漢字をいっぱい書ける。」
「〜料理の基準は、皿を洗うところにある。」
「〜死を許容する年齢に、いつの間にか達した。」
「〜奇怪な症状は、ストレスから来ていたのだ。」
「〜躰になにか症状があっても〜すべてストレスである。」
「〜人生は、中途半端に生きてはならないのだ。」