■なんでか?
今週中は、車通勤ができることになった。朝、家人を送った足で職場に向かう。駐車場は少し遠いが確保されている。今年は社会人の募集が多いので敷地内の駐車場では足りず、徒歩3分のところに確保されていた。毎年、大学生が多く自転車通勤で駐車場はいらなかったという。
到着して配置表を確認すると昨日と同じ作業内容であった。もうこのころになると、顔なじみもできてくるし、作業しながら話もする。多分、自分より年長者らしい人が、この作業がきついので変えて欲しいと頼もうかと話された。今朝も、タイムカードを打刻しに人事部の部屋へ入ると、体調不良で辞めさせて欲しい方一人、今日で辞めたい人一人の話をしていたのが聞こえてしまった。
実は、先週自分は箱詰め工程を経験させてもらっている。そのことを話すとなんで、あんただけかと、不思議がられる。自分でも分からない。一般的に、アチコチに変わる人は問題児が多い。自分もそういう風に見られているのだろうか。
午前中はラインに付いており、12時に止まったので昼飯を食べに出に掛かった。しかし、まだ稼働中のラインもあり皆出て行かない。しばらく、見ているとラインは再び動き出したので慌てて戻る。12時半まで稼働した。
午後からの配置表を確認すると自分は”中板”という工程になっている。午前中同じラインに付いていた方がそれを見て、なんでか?と聞いてきた。もちろん、分かるはずもない。初めての工程だったので、ベテランに教えてもらう、という予定であったが、人に教えるという感じではなく、一通り伝えたという感じであった。そんなに一度に覚えられるはずはないではないか。”中板”というのは、ダンボールの板を入れることであったが、それは最後で、自動機のお守りであった。一般的な言葉で言えば、出荷検査であろう。自動機は、シールとチラシを入れるが、この吸いつきにばらつきがあり、入ったり入らなかったりするので、入らなかった場合に自分が入れるのである。ほとんど、紙片を持って立っているだけであった。また、入数確認も行うという。品質保証部出身の自分はこういうのが得意である。たちまち一箱発見してしまった。何日に一回あるかないかの頻度らしい。
そして、ダンボール入れである。これは、積んである段ボール板を入れるだけである。しかし、ここに落とし穴があった。裏に緩衝材が貼り付けてあるので、2枚がくっついているのがある。そうすると、コンベアのスピードに負けてしまう。その場合は、ストップボタンを押せばラインは止まる。はじめからこういう癖があると分かったおれば、品物が流れていない間に準備しておくものを・・・・。
今日は15時20分に終わった。当然ながら疲れはない。しかし、とんでもない結果が待ち受けていた。それは、歩数が半分にも行っていないのである。車の場合はこうなってしまう。家人を迎えに行く時に、少し早めに出て公園を歩こうとしたが、西日が暑く、木陰の間を行ったり来たりであった。帰宅しても歩数は足りない。ちょうど、スーパーまで往復すれば達成する見通しが立った。明日の昼食のパンを買いに行こうと出た。スーパーに到着したら、コロナ感染者が出たので臨時閉店の貼り紙が貼ってあり、そのまま戻る。何とか、歩数は達成できた。明日からの車通勤の場合の対策も検討しておかなければならない。
■「自分のせいだと思わない」(小池一夫著、ポプラ社、2019年)を読む。
「すべてのものはいつか必ずなくなる」
「人生とは“時間”だから。」
「年老いていちばんの敵は“無気力”でした。」
「アクティブに休養する」
「出会う人皆、師」
「生産性で他人を判断しない」
「誰と出会うかで人生は決まる。」
「自分の違和感は正しい」
「“人生の時間がまだある”という甘えがあるのかもしれないね。」
「人相には心のすべてが表れるね。」
「勉強をやめない自分でいたいです。」
「最高の時はこれからやってくる」
「“逃げ出す”という選択肢がある」
「人間が不安を感じるのは、危険を回避するために人間に備わった本能だから仕方がない」
「机上の鏡を置くという習慣は、おすすめです。」
「生きたように人は死ぬ」
「“頑張れ”という言葉が、非常に負担になる言葉だという考えは浸透してきている。」
「失言は、本音」
「病を忘れている間は、病ではない」
「“ある程度の準備”をいつもしておく」
「見えている世界は自分自身の内面」