ノー

■ノー

 週が改まった感覚が戻った。今日から仕事が始まる。家人が休みなので送っていってもらう。少しけだるいが、何とかなるだろうと配置板を確認すると、”荷卸し”の担当になっていた。数えてみると10人もいる。これでは、筋トレにはならない。

 出勤カードを打刻して現場へ向かう。既にトラックが入庫しており、荷物を降ろし始めたら注意された。10時から始めてくださいと。一銭もならないぞ。いやにシビアである。何人かは他のメンバーが作業をしているのを横目で見ながら時刻が来るのを待っていた。

 開始時刻になったので荷卸しを始めた。一箱を降ろした時に名前を呼ばれたので、声の方を見ると、一人休んだので4号機に入ってもらいたいという。そのまま、クーラーの入っている部屋へ向かう。ただ、ベルトコンベヤーの上に並べるだけである。しばらくすると、テレビ局が来るので、インタビューに対応してくれないかと打診された。自分は市役所の紹介だったので断りずらかったが、もともとの説明はコロナの影響で解雇された方の受け皿的な要素も聞いていた。しかし、自分は関係ない、そんな時に、つい本音が出てしまっては台無しになろう。筋トレのつもりで来ていると言ってしまいそうになったので、はっきり「ノー」と返事を返した。まあ、評価が悪くなっても、最悪、もう来なくていいと言われても、痛くもかゆくもない。

 さらに、もう一つ。マスコミはインタビューすることで番組が成り立ち、大きな利益を得ているのである。にもかかわらず、インタビューに応じた人には、何も利益は出さない。言葉でお礼を言われても腹は膨れない。これって、おかしいんじゃないのか。マスコミはそんなに偉いのか!情報は無料だと思いあがっているのか!まったく、気に食わないね。

 今日は15時40分までかかったので、16時の電車は乗れなかった。次の電車は混んでいたね。座席に座れなかった。今の高校生や中学生は自分のような高齢者を前にして席を譲ろうとしないのか。自分は譲ってくれたらホイホイと座るのである。なんか、席を譲られると憤慨する高齢者がいるらしいが、どっからどう見ても年寄りだね。鏡を見たことがあるんかね!

■「緑の庭で寝ころんで」(宮下奈都著、実業之日本社、2017年)を読む。

「基本的に、ここには何もない。ただ時間があるだけだ。」

「物忘れが激しい。」

「売るものは自分でつくる。」

「まわり道のほうが遠くまで行ける~」

「それには、まず、捨てること。」

「笑顔には力がある。」

「私には特別なものは何もなかった。」

「文章には人が出る。」

「自分の人生の様子見なんかしている場合じゃない~」

「がんばらず、努力もせず、一流になれる人なんていない。」

「世の中は声の大きな人でまわっているのだと~」

「住みやすい街というのは、基本的に、観光客の来ない街だった。」

「~紅茶はこれまでをふりかえるための飲みもので、コーヒーはこれからのための飲みものだと~」

「悪戯に希望を連呼されても、人は明るくは生きられない。」

「読むのと書くのはまったく別の世界の話だと思う。」

「ないものを思う。」

「デビュー作にはすべての種子が含まれている。」