■またかよ
天気予報は大雪大雪と報じている。暴風雪警報がでるらしい。家人は早朝出勤なので7時過ぎに出かける。その後は、ゆっくりと朝食を摂りセカンドオフィスまで歩く。
雪はというか5mm以下なのであられであった。この場合はあまり濡れない。
8時過ぎにセカンドオフィスに到着である。まもなく、常連さんが入店される。
共通の人の話をする。どこで誰と誰がつながっているか分からない。お互い驚いでいる。
雪はようやく溶けだしたかと思っていたところで、また大雪という。今日からがひどくなると報じている。今日は降ったり止んだりと10cmまでは行っていない。報道によると10cm積雪で除雪車が出動すると報じている。なんでよ、という気持ちである。まあ、県内の道路を除雪すると考えただけでも思考停止に陥ってしまう。自治体の方々の努力には頭が下がる。
うどん粉を全部使いきろうと残りをこねた。3人前はある。最後なので一生懸命に踏んで踏んで曲げてを繰り返す。
これは今日は食べない。一日寝かす。そうして、また踏んで踏んで曲げてを繰り返す。
今日は寒いので熱い味噌ラーメンにする。まあ、いつものラーメンである。
いつもなら、午後の部が始まるが、天候が悪いので今日は出ないことにする。
まあ、必要かと言われればそれほどでもないし、急ぎかと問われれば、そうでもない。おかげで歩数は少ないが、これで良しとしよう。明日歩けばいいか。
■「茶の湯随想」(千 宗左著、主婦の友社、2020年)を読む。
「一山を超えるとまた次の峰が見えてくる」
「~亭主は数カ月、茶会によっては一年以上も前から心を砕いて準備を始めます。」
「最上のもてなしというのは、“もてなしていますよ”ということをけっしてあらわに主張せず、その心持がさりげなく相手に伝わることではないでしょうか。」
「昔の人は一期一会で茶会に臨む、亭主も客も真剣勝負だったのです。」
「茶の湯の道でいちばん悪いことは、慢心する心や、我執を持つことである。」
「“詫び”という言葉は~“正直で、慎み深く、おごらないさま”~」
「“詫び”という言葉は~本来、暮らしのゆとりを持ち、心も豊かでないと、手に入りかねるものだ。」
「小座敷の茶の湯は、仏法をもって修行し、得度することと同じだと考えるのがよい。」
「質素な生活に安住しうることこそ、仏の教えであり、茶の湯の本意である。」
「~茶席に入る前は必ず足袋をはきかえるという習慣も~」
「薄茶はその昔、濃茶を保存するために、茶壷の中の濃茶の周りに詰めた茶葉ですから~摘む葉の部分も違います。」
「要するに、茶の湯の究極の目的は、点前を含めた人格の形成にあるといえるのでしょう。」
「詫びの美しさとは、どこまでも清潔な美しさでなくてはなりません。」
「~気軽にというのは、無責任な、いいかげんな気持ちで、ということではありません。」
「~稽古というのは、自分にやる気さえあれば、どのような方法をとっても一人前になりうるのです。」
「お菓子が出たら、お詰め(末客)がとりきったところでいっしょにいただく~」
「~自分で考えぬ抜き、疑問を持って訪ねたことは、けっして忘れないものです。」
「鉄の釜や鉄瓶で沸かした湯が、おいしいのは、言うまでもないことです。」
「~茶碗は生きている~」
「初心忘るべからず」