■日常
一週間ほどのご無沙汰でセカンドオフィスまで歩く。歩くにはいい天候であった。
久々に常連さんと会話する。今日は、蕎麦粉を売ってもらうという用事があり、ついでに昼食も済ますことにした。
メニューを拡げてしばし検討し、ニシン蕎麦にした。ニシン蕎麦は自宅で散々作ってきたので、比べ安い。
なるほどの連続であった。まずニシンは味付けがされており、ちょうど器に合うように切られている。そもそも半身のニシンなど近くのショップには置いてない。そして、大根おろしがいいねえ。
帰りも歩いたので、これで8千歩ほどになる。今日は天気がいいので木の実の処理などしようかと考えていたが、そのまま昼寝になった。起き上がって、失敗作の蕎麦の処理を考えた。もうゴムのような蕎麦はご免である。そこで、おやつとして、薄く切って揚げて見た。ついでに、ニンジンとゴボウも添えた。
失敗作の蕎麦は、揚げてもダメであった。残り2食分あるが、どうしようかねえ。
このままなご成っていたら、残り少ない人生に対して申し訳ないので、コーヒーショップにいくことにした。今日は月曜日なのでいつもの店は休みで、少し遠くの店にした。
自分のような高齢者は困ったもので、妙齢の女性に「いっしょに、甘い物でもいかがですか?」とニコッと言われると、頭の中ではコーヒーだけでいいと理解していても本能が首を下げてしまう。太った豚より痩せた狼になれ、ではないが、痩せた狼より太ったカモになった。
今日は西日がまぶしかった。だいぶ経ってからブラインドを降ろしてもらったが、汗が出た。窓辺は疲れた目休めるにはいいと思う。BGMもいい。ジャズというのか、ブラスバンドというのかよく知らないが、元気になる。
夕方近くに帰宅する。なんと、実家の前庭に土筆が出ている。春だね!
歩数は1万2千歩と少し多い。今日は、ゆっくりした一日であった。願わくば、これを日常にしたい。
■「ぶどうの木のかげで」(小塩 節著、青娥書房、2019年)を読む。)
「匂いの記憶は音の思い出とともに不思議に長く脳に残るらしい。」
「そして食べる物がすべてなくなってしまった。」
「アスパラガスはいちど種子を蒔くと十五年は芽を出し続ける野菜なのだ。」
「日本の軍隊は大体において論理的理念がなくて、ただひたすら殴ることで兵士を訓練した。」
「会話は目から出発する。」
「ドイツでは今でもブナのドングリを食べた放牧の豚の肉がいちばん上質~」
「もともとモミジは、木の名ではなくて、布や織物に色をつけるための草木の色素を揉みだして染めた、~転じて、樹木の緑が赤や黄色に染まる~」
「ことばは変わっていくもの。」
「~生かされているものは外観如何に問わず、生きる意味と価値を与えられているのだ。」
「~なぜ“唐松”というのだろうか。それは江戸時代に植木屋さんが“唐風”だと褒め称えたところから~」
「ポーランドの“ポー”は平という意味~」
「ドイツや北欧の唐松は、群生をしない。」
「国家権力とは恐ろしいものだ~」
「つまり奉仕とは~仕えさせていただくということ。」
「~仕えるものは仕えられる。」
「人生は悪意でなくても、多くの場合に遅すぎる。」
「人の魂は、幼い日々にそのもとの形が刻まれると思う。」
「~芸術はインスピレーションではなく、日々の“仕事”から生まれる~」
「日本の政府、役人は、深刻な問題については、国民に対してはけっして自分が誤っていたと詫びることがない。」
「多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかった。」
「文学作品というものは時と場所を超えてずっと未来のことを伝えることがあるものだ」
「人生は、いつも“遅かった”という嘆きにみちている。」
「ライプツィヒ~ライプ(菩提樹の)ツィヒ(町)と呼ばれていた~」
「“努力”してやまぬこのような人間を、ファウスト的人間と呼ぶ。」
「この人間の傲慢こそ人間の悲劇ではないか。」