高齢者

■高齢者

 物心ついたころから、60歳以上を高齢者だと信じていた。そして、自分がその年齢になって、確かに高齢者という自覚は十分あった。ところが、世の中と合わなくなることが多く、そのたびに「なんで?」と思いながら過ごしてきた。

 自分の生涯の中で、60歳から70歳までの10年間がゴールデン期間ととらえている。そして、前半はダイヤモンド期間だと考えていた。5年経って振り返ると、70点ぐらいはあげられそうだ。もうこういう日は二度とは戻って来ない。自分の尺度は単純明快である。ようするに「楽しいかどうか」だけである。そのため、楽しめない場合は自然に向き合わないようになっていった。

 昨日、感染症の予防接種券が届いた。てっきり、コロナだと疑わなかったが、中を見ると、肺炎球菌感染症であった。しかも、3千円とかなり高価である。しばし、悩む。

 午前中は、セカンドオフィスへ向かう。常連さんに接種券のことを聞くと、5年毎にくるという。受けておいた方がいいと聞けた。

 そうして、今日からお出かけ定期券の申し込みが始まった。これは、市内中心部から出発すれば、市内であれば100円で行ける。9時から17時までの降車基準である。難点は、市の中心部まで行かなければならないことであろうが、日々歩いているのでなおいいだろう。歩数は、昨日は2万歩で今日は1万歩である。

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 こうなると、胸を張って高齢者と名乗りを上げることができる。市の施設などは半額で利用できることもうれしいね。プールへ行って入浴のための灯油代を浮かそうと考えている。アンチエイジングなどという訳の分からないのが流行っているらしいが、若く見えたって長生きできるわけではない。スポーツで身体を鍛えていても、長生きできるわけでもない。こっちは、ウエルカムエイジングで行きたい。

 昼になったので、最後の2・5%つなぎの蕎麦を食べる。前回はブツブツに切れたので期待はしていなかった。まあ、切る練習台であった。

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 今回はなかなか細く切れたと思う。茹でて水で締めたがあまり切れていないことが分った。まるで、訳が分からない。同じロットでも切れる場合も切れない場合もある。

 考えられることは、麺の太さ、熟成期間、つなぎの偏りがある。3玉中2玉が成功であった。

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 今回もとろろ蕎麦にゴボウニンジン天ぷらである。かなり旨い。天ぷらもかりかりで自分の揚げたのを食べると店の粉っぽいのは食べる気にならない。こういうのが毎回食べられれば最高である。しかし、品質が安定していないので、次回からは5%つなぎで決めようと考えている。

■「忘れる力 思考への知の条件」(外山滋比古著、さくら舎、2015年)を読む。(その2)

「~集中によって時間のゆとりが生じた~」

「余技と書いたが、それらは生活の質を高めるはたらきをしている。」

「英語で主語を落とすのは、命令形の第二人称と日記の第一人称だけである。」

「毎日の計は朝にあり~」

「~いまの社会が、視覚的記憶を賞賛し、聴覚的記憶をないがしろにしている点である。」

「“なつかしい”思い出は、忘却の美化作用によって生まれる。」

「お伊勢参り、四国の八十八か所巡礼も、ストレス解消に大きな効果があった~」

「第一級の知性の持ち主でないと、フール(道化)はつとまらない。」

「ストレスを解消するには、忘却がしっかりしていなくてはならないが、それに気づく人が少ない。」

「散歩は体のためによいだけではなく、精神的効果もある~」

「イヌのほうが、連れている人間より上等であることが少なくない。」

「~同じようなことをしている者のいないことが、創造性を高めるのであろう。」

「“われを忘れる”のは最高の忘却である。」

「経験は最高の教師である。ただし月謝が高い」

「病気知らずは決して健康を保証しない。」

「忘却と時間でつくる人生は豊かである。」

「本ばかり見ていては、新しいことを考えることはできない。」

「はじめるのは容易だが、やめるのは大変むずかしい。」

「ヒマは大敵である。」

「よく覚え、よく忘れるのである。」