■講座資料
今日は朝から雨である。こんな日は、セカンドオフィスでフォレストリーダーの森の寺子屋で行う出前講座資料作りをするに限る。自分は誰も成り手がいない場合に登壇することにしていたが、しょっぱなから誰も手を挙げてくれなかった。まずは、午前中に小学1、2年用の資料を作る。これまでの経験からあまり盛り沢山にすると話が散漫になることが分かっているので、話を絞る。
昼になった。今日は出がけに冷蔵庫の中を確認してきた。昨日買った肉は今日が賞味期限である。野菜は、そろそろ傷んで捨てなければならないようなナスが2本ある。そこでひらめいたのは、マーボナスラーメンである。
しかし、最初に調理するのは山菜である。山フキと黒ワラビである。下ごしらえは昨日中に終わっていたので、ほとんど味付けだけで済む。めんつゆで茹でる。
次いで、麺を伸ばして切る。
ナスはどうするかと悩んだが、結局素揚げにする。問題は肉である。マーボには、ひき肉が適しているが、スライス肉しかないので、みじん切りすることにした。包丁が切れないねえ。
そうして、マーボナスが終わった後に、醤油ラーメンを作ってから乗せる。
付け出しの、ふきとわらびの煮物は柔らかすぎるが、十分一品になっている。
デザートのメロンも最後の口直しにいい。問題はマーボ麺である。
店で出されるのと大きく距離があり、人様には出せないが、それでも感じが出ている。ナスはもう少し大きく切っても良かった。しかし、しょっぱいねえ。なぜだろう。犯人捜しをした結果、和風だしが原因のようだ。だいぶ前に、間違って買って来たのもである。次回から分量を半分にしたい。
中華スープが無くなったので、詰め替え用のを買うことにする。
マストの昼寝を経て、午後も違う場所のセカンドオフィスで資料作りである。午後は、小学3、4年生用の資料を作る。こっちも大変である。今年から学習指導要領が変更になっているので、既に学んでしまったことなら白けてしまうだろうし、5年以降で習う内容の場合は先生からストップがかかる。今月いっぱいかかりそうな雰囲気である。
夕方雨が上がったので、公園を歩く。
ネムノキに花が咲いた。
シナノキにも花が咲いた。
■「ひび割れた日常」(奥野克己・吉村萬壱・伊藤亜紗著、亜紀書房、2020年)を読む。(その1)
「~自然の中にある、人間を含む生命を見つめ直してみることが、コロナの時代のひとつの道行だと~」
「~感染を恐れる側からすると、唾を飛ばしながら親しげに近づいてくる存在は誰であれ恐るべきモンスターである。」
「ウイルスはもともと私たちのものだった」
「ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの難民の一部」
「~新型コロナウイルスは平和な森から人間の手によって追いやられた被害者と言えるだろう。」
「この前の土曜日が、つい数日前のことのように感じる。」
「植物がちゃんと順番どおり咲いているというのは、見るだけでも安心する。」
「植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある。」
「いま、私たちに問われているのは、“理不尽に与えられてしまうもの”とともにある世界の姿を描くことではないだろうか。」
「突如あらわになった足し算的な時間こそが、私たちの不安や落ち着かなさの正体なのかもしれない。」
「森は人間を超えた独自の摂理で動いている。」
「~新型コロナの流行があっけなく終息して何一つ変わらぬ日常がたちまちの内に戻ってきたならば、それこそが本物の脅威だと感じる~」
「~植物にとっての体~その特徴は“器官のなさ”なのだそうだ。」
「~植物の体は分散型。~体の一部が失われても、生き続けることができるのだ。」
「人間は徐々に、体を手放しつつあるのかもしれない。」