■ばかな
これまでの経験だと、登山後2日目はひどい筋肉痛になるはずであった。しかし、少しはケがあるものの、階段も蟹股にならずに降りれる。思い起こすと、昨日の夕方が一番ひどかった。これは何を示しているのかと考える。若い時は、翌日に猛烈な筋肉痛が起きていた、その後歳を重ねるにしたがって、翌々日に起こる様になっていた。
それが、今回は翌日の夕方になった。これは、聞いたことは無いが、筋肉が若返っているのではなかろうかと感じた。人間の細胞は常時代謝を繰り返しているらしいので、筋肉細胞も例外ではないかもしれない。こっちの知識は殆んどないので想像しているだけである。まあ、全部若い時の細胞に置き換わることは考えにくいので、何割かが若い細胞になっているために、翌日に筋肉痛が起こる様に変わったとはいえないか?
そんな、ばかな!!
朝食を摂った後に、近所を歩くことにしている。次回の検診で体重が増えていたら、薬が増えるかも知れないと言われており、それが強迫観念になって、こういう行動を起こしている。
キョウチクトウの花が盛んだ。
マテバシイも種子を付け出したようだ。
ハシボソガラスが道路を歩いている。
午前中は用事と送り迎えと買い物になった。
昼食であるが、気分でミソラーメンにした。今日の一品は朝こしらえていた。山フキとワラビと穂先ススタケの煮物である。厚揚げも入れた。味付けは麺つゆである。
みそらーめんは、肉1パック全部使い切り、豆板醤で辛味を足した。野菜は、カット野菜ではなく玉のキャベツを買って来た。
塩っ辛い原因がダシにあると考えており、今日は別のダシに変更した。
果たしてその味は? とても人様に出せるレベルではないが、まあ悪くない。麺を食べ切った後に、ご飯を入れて雑炊風にして食べ切った。
食後は、マストの昼寝である。15時頃にセカンドオフィスへ向かう。何か、グーグルが動かない。不思議なことが起こった。何日か前にスマホで撮影した昼食の写真がフォルダーに入っていなかったので、撮影ミスかと考えていたが、今日、現れてくれた。わけが分からんね。そんな、ばかなの2回目であった。
■「ひび割れた日常」(奥野克己・吉村萬壱・伊藤亜紗著、亜紀書房、2020年)を読む。(その3)
「~最悪の拷問とはだれの目にも意味のない作業を、終わりなく強制することである。」
「一切の存在のほうから自己のもとへと届けられたものこそが、悟りなのである。」
「~生活保護ビジネスの餌食になっていた~」
「人類堆肥化計画――悦ばしい腐敗、土になりうる人間」
「生きることは即ち殺すことであり~」
「里山は都会よりよっぽど不埒だといえるだろう。」
「どうしようもない。どうしようもなく生きて、どうしようもなく死ぬのである」
「~もし感染してしまえば“どうしようもない”と思える諦観をも備え持つこと。」
「胎盤は英語で“プラセンタ”と言うが~」
「英語の“健康(health)”の語源が“全体”を意味するhaleである~
「山も川も、草も木も、水や土も、そして人間も含む神羅万象は、それぞれが気を発しながら、全体性をつくり上げる運動に関わっている。」
「~“究極のマイナス思考”から始めてみるしかないのではないか~」
「そもそもお前ら人間の存在にも理由もなければ意味もないんだよ」
「~今回のコロナ禍がつきつけた大きな問題は、人間の想像力の貧困さだと思っていた。」