■今日も
朝は気持ちよく起きることが出来ている。自分の考える豊かな生活の条件の一つである。これには、質の高い深い睡眠が必要だと考えている。
登山後の筋肉痛は嘘のように引いて、絶好調という感じである。
予定表を確認すると、今日は燃えないゴミ収集日なので、準備してあるのを持って行く。戻って来たら、家人より、缶も持って行けと指示されるので、2往復する。
今日もいい天気であるが、8時から野球の放送を見ることにしているので、時間まで部屋でくつろぐ。自分の部屋にもテレビがあるが、5チャンネルが入らないので、居間へ降りて見なければならない。
なんか投手戦になりそうだと思っていたら相手方がホームラン。がっかりしていると、その裏にホームランで同点と追加点という流れで終盤に向かう。
最終回は、ドラマだったね。漫画でもあのような表現は出来ないだろうと思う。
まったく、感動であった。二日続けての感動に、気持ちが前向きになったようだ。
近所を歩くと、ハナカイドウが咲いていた。
野球は昼前に終わったが、その後の様子も伝えてくれており、昼食の時間は過ぎてしまった。昼食であるが、昨日のように外食などするくらいなら、自分で作った方がいいと考え、一番簡単なケチャップ和えにした。これは、ほとんど何もしなくてもいい。
家族が戻って来たので、そのタイミングで外出する。いい天気である。こういう日は車を使うのはもったいないので、パソコンを持って出る。朝からコーヒーの味に飢えているようなので、セカンドオフィスへ向かう。もちろんパソコン作業もある。
足の痛みが無くなったことで、また山を歩きたいという気持ちがわきあがってくる。もちろん、この間のような過酷な登山ではなく、登山道というか遊歩道がある場所である。山を歩くというのを健康のバロメーターと考え生活している。ここでいう健康とは、肉体的健康、精神的健康、社会的健康である。とかく、何かつっかえているようなことを抱えていると、山など行きたいとは思わなくなる。
原因が明確な場合は解決は難しくないが、原因が分からない場合も多い。そんな時に、感性を鋭くして感じるのである。しかし、なかなかうまく行かないね。
住宅会社から郵便が届いた。薄くて宣伝などではなさそうだ。開封すると一枚の文章があり、担当していた方が交通事故で亡くなられたという連絡であった。
毎年年賀状をくれるので名前は憶えている。まだ、若いのに。多分40代ぐらいであった。今の世の中、自分のような高齢者は生きづらくなっている。そろそろ、団塊の世代が鬼籍に入り始めるので、日本は多死社会となる。出生数も最低を更新したようだ。
そうすると世代間のギャップが生れ、高齢者はいなくなって欲しいという論調が多くなる。自分はそういう論調を聞くと、そんなにガミガミ言わなくても、直ぐにいなくなるのにと思うようにしているが、なかなか西の方へは行けないのが現状のようである。
■「裸で生まれ裸で帰ろう」(千咲 陽著、幻冬舎、2022年)を読む。(その2)
「ただこの先、少しぐらい具合が悪くとも、病院にかかろうとは思わない。」
「お金がないし、このまま野垂れ死にしたら本望。自然の成り行き任せです」
「裸虫とは人間のこと。」
「古代の人にとって、裸は神聖なものでした。」
「わたしは裸で母の胎を出た 裸でそこに帰ろう」
「~係長に昇進したのがきっかけで、躁鬱病になった。」
「薬は簡単に人間の脳や心をあやつることができる。」
「精神病院では、いろんなことを学びました。」
「九十代の半ばまでは、両腕だけで体を支える二点倒立を毎日行っていた。」
「新高山とは、台湾で一番高い山。」
「だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときは、とても危ない」
「人間というのは、集団になると理性を失い、限界を超えて何でもやってしまう。」
「人間は、いつまでも全力で飛び続けることはできない。いずれは地に落ちる。」
「長生きしすぎたな」