摘果体験実習

■摘果体験実習

 今日は午前中に摘果体験実習がある。そこで、時間まで近くの公園を歩く。

 歩いていると、ドラミングの音が聞こえる。ほぼコゲラだと考えていたが、ここにはアカゲラもいるので確認しようと近づいて撮影したが、野鳥はスマホでは撮れないね。

 実習が始まった。摘果前はこのようになっている。これを、一房一個にするのである。しかし、これが非常に難しい。大きなものを残すという訳ではなく。シャンとしたのを残すと説明されたが、このシャンが分からない。

 摘果後はこのようになる。抜かさないように、枝を追って計画的に取り組まなければならない。まあ、自分では無理であることが分かった。

 実習後は、セカンドオフィスに向かう。今日からはこの新しいセカンドオフィスになる。

 いつも通りに過ごしてから昼食である。帰宅後、いつもとは違う疲れが襲って来て直ぐに昼食の準備に入れない。少し休んで起き上がる。面倒なので、手間をかけないでおこう。今日は、蕎麦の日であった。掛けそばでもと考えたが、あまりにも寂しすぎるので、カレー蕎麦にした。これに、昆布締めとおむすびを付けた。

 昼食後は、第二部へ向かう。その帰路、庭木を観察しながら戻る。

 ヤマボウシが咲き出したようだ。

 これは、マユミである。もう迷わないね。

 天気予報では晴れと成っていたが、途中から雨も降り出して、車での生活になってしまった。

■「なりゆきを生きる」(玄侑宗久著、筑摩書房、2020年)を読む。(その1)

「“なりゆき”~本来は逐一変化するプロセスも踏まえた正確な現状のことだ。」

「“自分らしく”などどいう考えはそのときいかにも“狭い了見”に見え~」

「計画の実現などより遥かに豊かな時間になる事は間違いない。」

「~五十歳を過ぎれば寿命なのだと自らも納得しようとした。」

「まだそのまま生きられるはずの花を切り、それを“活ける”と表現するのだ。」

「~すぐに新しい建物に建て替える人々は、死者のこともすぐに忘れてしまう人だ~」

「自然とつきあう際の基本的な態度がこの“手入れ”なのだし~」

「そして国が作ったあまりに高い防潮堤は、海の厄介さを排除するために恵みも拒否せよと迫るものではないか。」

「限界以上の競争に勝とうと思えば、なにか重要なものを失うしかあるまい。」

「廉いのは確かにありがたいが、廉すぎるものに命を預けてはいけない。」

「三冬暖気なし」

「正月はもともと“修正する月”~」

「~本物の勧進帳、つまり寺社などの造営、修理のため、ご寄付を募る主旨の文章である。」

「“寺”という文字はもともと“同じ状態に保つ”意味。」

「人は加齢と共にさまざまなものを失うが、禅の道場ではこれが若いうちから無理矢理奪われていく。」