今年も

■今年も

 昨日の登山での脚の痛みはあるけれど、今日から仕事である。いつものように5時にアラームをセットしていたが、4時50分に目覚める。

 朝は、マフィンが売り切れだったので、フランスパンに焼いたソーセージとチーズを挟んで”地下鉄”のように食べる。ハッシュドポテトは熱々である。

 朝食後、お昼の弁当を作る。魚肉、豚肉、大豆タンパク、酢などバランス良く作っているつもりである。若干のマイナーチェンジはあるものの、基本的には同じメニューである。これが、不思議に飽きないのである。

 今日も9時スタートであった。昨日が休日だったからだと思うが、9時前からトラックが3台並んでいる。ペースが速かったね。30分で通常の1時間分ほどの入荷量であった。

 今日は日曜日なので、他の会社へ勤めている方も参加された。大学生は来てない。もう来ないと考えている。

 午前中は10時から投入工程であった。この配置が一番しっくりいくね。

 さて、問題は午後からである。ラインは半分しか稼働させてない。自分の持ち場はあるのかと考えていたら、午後も荷卸しであった。トラックは12時までしか入荷しないので、午後の荷卸しは、投入工程の応援で、決まった仕事は無い。まあ、ブラブラしているだけである。

 そうして、午後が終わるころに人事部長が来て、明日のためにダンボールを組み立てて欲しいという。今日もダンボール組み立てである。

 実は、明日から通常ラインの稼働は13時からになる。今年も、か!

 そうなると、通常ラインしかやらない人は、かなり減収になる。昨年は自分はこの立場であり、30分で終わったこともあった。

 しかし、今年は荷卸しからあてがわれたので、品物の入荷が少ない場合でも12時までは居なければならないので、収入は保証される。そうして、午後も通常工程なので、同じ収入が確保できる。

 人は、どんどん辞めている。もう、この仕事は今月には終わるだろうと考えている。

 今自分がやることは、来年も呼ばれるようにすることである。

■「死という最後の未来」(石原慎太郎曽野綾子著、幻冬舎、2020年)を読む。(その3)

「人間が編み出した文明や技術がその浅はかさを露呈して、自然の循環を狂わせたことで未知のウイルスが人間の生命を奪いだしたのではないか、と。」

「今の子供や若者たちは、つらいことを避けて経験しないから、脳幹が鍛えられない~」

「一日でも鍛えないと、かなり衰えます。」

「ねじ伏せるがごとく、老いを無視する。無視することでがむしゃらに生きたい。」

「死なないということは、最高の罰でもあるんです。」

「受けるよりは与えるほうが幸いである」

「人の役に立てるということは、自分自身の希望となる。」

「~定年後も何らかの形で会社にしがみつくような人がいますが、逆にみじめですよ。」

「老年期こそ、実は学ぶのに最適な年月なのだ」

「勉強する楽しさというものは、魂を満たしていくものだと思います。」

「人として当たり前のころが、できなくなっている。」

「~要らない物をあげることが援助だと思っている人たちがいる。」

「生涯の黄昏という時期に入っていって、十分に孤独を知ってこそ、人生は完熟していく。」

「順境は悪徳を一番よく表すが、逆行は美徳を一番よく表すものなのである」

「同時にどうでもいいこともわかってきますし、むだにしている時間はないです。」

「まさに死は人生の頂点です。そして最後の未知、希望である。」