クラクション

■クラクション

 今日は朝から雨である。雨の場合は、最短距離のコーヒーショップに行くことにしている。朝が早かったからだろうか店の中は空いていた。

 飲み物はホットコーヒーにした。しかし、途中でウインドブレーカーを脱いだ。窓の外を見ていると飽きないね。

 少し早いが、買い物があったので、店を出る。先ずは、衣料品である。靴下が少なくなっている。これは、匂うと家人が廃棄するからである。何度ゴミ箱から回収したことか。5足組を買う。夏用は薄いので十分である。

 それから、次は食料品である。昼食のタンパク質摂取のために、豆腐を買う。

 車の入口に立ち止まってスマホを見ていたら、悪意のあるクラクションを鳴らされた。まあ、自分が悪いのであるが、もう少し優しくできないものかね。身体がびくついてしまったではないか。ああ、後味が悪いね。♪♪~夏の~クラクション~鳴らさないでくれ~と叫びたい気持ちだった。

 帰宅しても、足が痛いね。昼食の準備を初めてもいい時間であるが、疲れが先行する。なご成って、昨日のEテレの見逃し配信を視聴する。見逃し配信は画期的であると考えているが、何度も途切れるのが難である。まあ、続きを流してくれるのであるから贅沢も言えないか。無料だもんね。今日の火星の話は面白かったね。だんだん、見る番組が固定されるようだ。民放もあるので、見逃したことに対するストレスは無くなった。

 少し元気が出て来たので、昼食である。今日は蕎麦の日である。長芋があったのでとろろそばで決めていたが、冷蔵庫の中に使いさしのダイコンが残っていたので、おろしそばに変更である。ススタケは皮のまま焼いた。まあ、香はいいね。

 ヨシナの昆布締めは、ヨシナが採れないので、今日から一切れづつにする。メンマは最後の残りである。何か忘れていると思っていたが、ベったら漬けを出し忘れである。

 これを時間を掛けてゆっくりと食べるのである。今日も満足な昼食であった。

 昼食後は、FM放送が始まるまでは、全ての音源を断って昼寝である。時間になったのでFM放送を聞く。いいねえ。

 放送を聞きながら、メンマの次のロットを作る。冷凍庫にはタケノコだらけであるので、今日で少し空きが出来た。

 摘まみ食いではなく、味見をしたが、大丈夫である。この量で何日もつだろうか。最初は、このロットが無くなったら塩漬けを使おうと考えていたが、もう一度穂先タケノコを探すことにした。まあ、無ければ塩漬けを使わざるをえない。
 放送が終わったら、フォレストの準備作業である。毎日少しづつでないと、続かない。

 少しやっては休みを繰り返す。そうして、洗濯物を取り入れてセカンドオフィスへ向かう。銀行にも用事があったので、一番効率のいい場所を選んだ。

 途中、4tトラックから優しいクラクションが鳴らされた。前の職場の同僚のNさんである。もう退職して7年が経とうとしている。こういうのは嬉しいね。

 ♪♪~夏の~クラクション~鳴らしてくれ~。

■「ちいさな哲学」(長谷川 宏著、春風社、2009年)を読む。(その1)

「季節のめぐりに合わせて取れ高の多いものを口にするのを、質素な食事というなら、河豚も白魚も松茸も質素な食べものだった。」

「~そこに暮らしているかぎり、品目の限られた食事を窮屈に思うことはなかった。」

「~やむなく長男のわたしが名代として出席したのだった。」

「~街での夕食は正真正銘の外食だったが、これがちっとも楽しくなかった。」

「食通の友人・知人がどこそこの店はすてきにうまいというのを聞くと、食べてみたい気は起るが出かけるまでには至らない。」

「市井のヘーゲル好きが集まって“法哲学講義”をドイツ語で読んでいるのだが~」

「~大自然の中であえて都会的な便利さを排した生活を作り上げることに、ほかでは得られない充実感があった。」

「残念ながら、私の語学力ではドイツ語の意味を聞きわけることはできない。」

「バリヤフリーは設備関係ではなく、まず人との環境に言えることではないかと思います。」

「もう少し“自然に”死ぬことはできないものか~」

「~希望に挫折し、絶望をかみしめることこそ幸福への道だ。」

「~有名な“コギト・エルゴ・スム”(われ思う、ゆえにわれ在り)」

「自我の存在、自分の存在こそがもっとも確実だ~」

「偽りの喜びよりは悲しい真理のほうがまし」

「会にでつづけるには、予習の時間をきちんと確保しなければならない。」