サイレント

■サイレント
  最近のニュースで「餓死」を取り上げていた。痛ましい。
 少し前の、例えば「おにぎり食べた〜い」と餓死された人の場合では、こんな近代的な社会に信じられないという論調が多かったようだが、今回は、いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる、とされている。
 こうなったら、戦争と同じではないか。経済戦争の犠牲になったとは言えないだろうか。経済戦争といえば「心中」も痛ましい。
 しかし、これは何か主張らしきものが伝わってくる。しかし、何も言えず、静かにコト切れる餓死に対しては戦慄さえ覚える。
 「餓死」は、「自殺」や「心中」よりも悲惨であると思う。
 ガミガミと声高に叫んでいる者の意見は通るが、何も言わず静かに去っていく者の意見は見逃されている。だから、中身は無くてもパフォーマンスが重要である、というトンデモ意見が持てはやされる。何も言わずに去って行く、お客さん。選挙で白票を投じるためだけに期日前投票会場までに交通費と時間を割いて行く有権者。こっちこそが真の意見なのではないか、と考えている。
 サイレントマジョリティという言葉があったことを思い出した。


■富士山の日
 今日は、語呂合わせで「富士山の日」らしい。
 昨年はツアー登山だったけど、いい思いでが出来てよかった。
 でも自分自身納得してない部分がある。
 それは、ゼロ合目から歩いて登らなくては冨士登山にはなっていないのではないかということである。
 毎年この日に思うのだろうか。いっそ、決行してしまおうか。
 いやいや、今年は穂高方面の計画を立てている。もう少し先か。
 そうこうしている内に噴火を起こし、二度と登れなくなるのではないかという別の自分がいる一方で、一回登ったからいいじゃない、という自分もいる。
 まあ、好きにさせてもらおう。