人命よりも企業

■「日本銀行を創った男」(渡辺房雄著、文藝春秋、2012年)読む。
 明治初期の話である。お札になっている人が沢山でてくる。この人、名前は知っていたが詳細は初めてであった。このころは、欧米文化の導入が急がれており、外遊が一つのステイサスであった。デフレ。今読んでも通じることが多いうように感じた。物事の本質はそうかわらないのだろう。

■人命よりも企業
日経ビジネスからの引用である。
「今年の初めに、「社員の命か、企業の信用か 裁判所はどちらを向く」という見出しの記事が新聞の紙面で大きく扱われたことがあった(以下は産経新聞に掲載された記事の概要)。
 「悲惨な過労死を少しでも減らしたい」「ブラック企業と評価される」─。社員が過労死した企業名の開示をめぐり、大阪地・高裁で判断が分かれた。「全国過労死を考える家族の会」代表の寺西笑子さん(63)が、社員が過労死の認定を受けた企業名を大阪労働局が開示しなかったのは違法として、国に対して不開示決定の取り消しを求めた訴訟。1審大阪地裁は企業名の開示を命じたが、2審大阪高裁は原告側の請求を棄却する逆転敗訴の判決を出した。寺西さんは「企業名が開示されるようになれば過労死に歯止めがかかる」と訴えており、最高裁に上告。最後ま
で戦い抜く決意を固めている。
 これは裁判所の判断であり、企業が隠ぺいしたわけではない。だが、「人の命」と「会社の社会的評価」が天秤に掛けられてしまうのは、何とも言えない違和感を覚える。
 いずれにしても、“人”の命を脅かすような働かせ方はあってはならない。国連の警告があろうとなかろうと、長時間労働というものがいまだに存在し、その結果、身体も心もボロボロになり、命を削りながら働かなかなくてはいけないような社会は異常だ。
 どんなに経済が強くなろうとも、人が命を削りながら働かなきゃいけないような社会がいいわけがない。
長時間労働が続くと睡眠時間が減っていくから、身体は必然的に疲弊する。本来人間は疲れると、前頭葉にある「疲れの見張り番」から、「疲れているので、休んでください」という信号が送られるのだが、その指令を無視して活動し続けると、見張り番自体が疲弊してしまい「休んでください」という指令すら、送れなくなる。
 過労死する人のほとんどがその直前まで、死に至るほど「疲れている」という自覚症状がないまま、過酷な状況に慣れてしまっているケースが多いのも、この見張り番の疲弊によるものだと考えられている。 」