オッサンを撲滅せよ

■「長生きって迷惑ですか」(野間昭夫著、幻冬舎ルネッサンス新書、2012年)読む。
ヒポクラテスの医術感、即ち『治療に際しては、私利私欲を捨て、ひたすら患者の事を考えなければならない。それに、慎み、威厳、奉仕の精神などモラルも要求される。要するに、医師は自我を捨て、患者に尽くすことができなければならない・・・。』」
「この人はこの施設の対象ではない」これは、自分の親でも実際に言われた言葉である。
「胃ろうを作っても、本人は幸せではない。」

■オッサンを撲滅せよ
日経ビジネスからの抜粋である。
「いったいなぜ、オッ様的雰囲気が、職場に蔓延するのか?
 昔ながらの会社人間的働き方を強要する、妙な威圧感はどこから来るのか?
 不安が根底にある――。私には、そう思えてならない。多くの人たちが、「群衆の中で息をひそめる」という、保身の掟の罠にはまっているのだ。
 ギリギリの人数、すぐに結果を出さなければならないというプレッシャー、時間的余裕のなさなど不安は尽きない。そんな状況でも世界は動いている。新しいことへの創出が求められているにも関わらず、現状を打破しようにも一歩踏み出すことへの不安を拭い去ることができない。
 何か失敗して降格になったり、関連会社にでも飛ばされたり、リストラされてはたまらない。せめて、今のポジションだけは守りたい。今のまま、ここで生きるのが最善の策。
 そんな自己保身が高まった時、人は群衆に紛れようとする。
 かつてオーストリアの心理学者で医師のヴィクトール・E・フランクルがその著書『夜と霧』(みすず書房)の中で、
強制収容所における人間が文字どおり群衆の中に「消えようとする」ことは、自分を救おうとする試みでもあった。収容所における保身の最高の掟は、「決して目立つな」ということである」――と説いた。
 仕事は、本来は“ストレスの雨”に対峙する“傘”の1つだ。「仕事=労働」には、潜在的影響(latent consequences)と呼ばれる、個人にとって数多くの経済的利点以外のものが存在している。
 1日の時間配分、自尊心、身体及び精神的活動、技術の使用、自由裁量、他人との接触、他人を敬う気持ち、社会的地位、社会的役割などの、「労働」がもたらす“産物”が、人間の元気の力となる。
 「ワーク・ライフ・バランス」とは決して、仕事に費やす時間とプライベートに費やす時間を半々にすることではない。思いきり仕事にのめり込む時期があってもいいし、仕事以外のことに熱中する時間があってもいい。大事なのはその割合ではなく、その時間を自分でコントロールできる自由があること。
上司も、部下も、群れを出る。 」