ゴミ出し

■ゴミ出し

◎重い出し父の面影思い出し  禅智  
毎週2回のゴミ出し担当である。今朝は重かった。腕の運動にちょうどいい。原因は明確である。数日前に大きなスイカが食卓に上った。毎日食べているのだがまだ半分ほど残っている。自分流の食べ方は、8分の1にしたものを皿に乗せ大きなスプーンでザックザックと食べる。この方法なら手が汚れない。
そのつけが、重いゴミ袋になって返ってくる。ゴミ袋を運びながら、もう半世紀ほど昔、父親が生きていたころ、スイカの皮で漬けものを作っていたことを思い出していた。
今思うと結構器用でマメな父親であった。しかし、息子には遺伝していないらしい。

■「別れの挨拶」(丸谷才一著、集英社、2013年)を読む。
 亡くなられた後は、沢山の本が出版される。今回もそうだ。自分は、昔から評論というのをあまり好まない嗜好があったようだ。生の魅力をある思想のフィルター越しに観るということにささやかな抵抗をおぼえていたのかも知れない。しかし、優れた書評は、未熟な自分の幅を広げてくれる場合もあった。
「小説は何をどう書いてもいいものだという森鴎外の台詞は、わが文学を長く指導した。」
「風になびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬ我が思ひかな」(西行
「学問とか藝術とかは、本来、おもしろがってやるものだから、栄辱褒貶、つまり成功とか失敗とか、世間的な反応はどうでもいいことのはずだが、しかしそれは一応の建前で、評判がいいことに越したことはない。」
「読みごたえのあるおもしろい本はたくさん出てゐる。これを読まずにはふって置くのは賢い態度ではない。」
「素質のわるい人間には、教育の方法がない。」(孔子
「文学にたづさはる者が、『ご趣味は?』と訊かれて『読書です』と答へるのはをかしいのだそうです。たしかにさふかもしれない。」
わが青春の一ページの草稿を書きあげた後、不整脈で倒れた。祝賀会では代読された。