■まくわうり
◎親戚の小川の横でまっか取り
南風の強い日であった。出勤時は背中を押されるので歩きやすい。向こうから同年齢の方が顔をにやけながら自転車を漕いで来た。完全に向かい風での自転車漕ぎなのを照れ隠ししているようだ。
曇りであったので、立山連邦は雲に隠れていると思っていたが、交差点で東の方を見ると、水墨画の世界であった。
風の強い日は、徒歩通勤者にとっては緊張を強いられる。何がどこから飛んでくるかわからないので全身アンテナで歩く。
自販機の空容器入れが倒れて蓋が飛んでいる。ペットボトルも散乱だ。
しばらく歩くと、街路樹が折れている。風だろうなあ、鳥が折ったのではなかろう。
今は亡き祖母や入院中の母親が「まっか」と呼んで、自分も大きくなるころまでは「まくわうり」のことを「まっか」と思っていた。まくわうり⇒まっくぁうり⇒まっかうり⇒まっか、なっていたのだと思う。
さて、思い出すのは、今は無き親戚の畑である。従兄と収穫に行ったときにツルを踏むなと叱られたことを懐かしむ。近くで小川が流れていたかどうかは曖昧だが、有ったように思い出す。
家人の実家で食べきれないほどの”まくわうり”をいただいた、中にはメロンのような品種もある。この小さなメロン風の瓜は苦いのである。甘い場所もある。難しい。
梨の幸水とまっかで日々楽しい食卓になっている。
■「ゆるやかな生き方」(五木寛之著、実業之日本社、2014年)を読む。
高い確率で読むのは2回目である。覚えている内容がいくつもあったが、最後まで面白く読めた。
「病んだ時代に生きて、心が病むのは自然のことだ。」
「高齢者にだって美意識はあるんだよ。」
「人間は五十年くらいが耐用期間なんだよ。」
「流行語はできる限り使わないこと」新しいものほど腐りやすいからだ。
「変わらないことの方が、強い生命力を必要とするかもしれない」
「鬱という意味は、草木が勢いよく茂るさま」
「日々の小さな「気づき」の積み重ねが、私たちの心と体を支えている」
「わが計らいにあらず」
「体は必ずなにか信号を発している。必死で伝えようとしているのだ。」
「すべてのものは変化する。移り変わらないものなどこの世に存在しない。」