ボケ

■ボケ

 ようやくいつもの生活に戻りつつある。今日は晴れのようなので7時出発を目指して6時に起床する。朝食を食べ身支度して出発である。向かう先は、セカンドオフィスである。もうルーチン化している。特に義務はないのであるが、何かしら引き付けられるものがある。外へ出て誰かと話す機会があれば、場合によっては、シャワーを浴び、そうでない場合でも顔を洗い、歯を磨き、髭をそり、髪の毛を手入れし、顔のケアもするであろう。今日は開店と同時の入店であった。誰もいないのでいつもの席に座る。

 早い者の特権でもないが朝刊を取る。いつもは、競争率が激しく手に取ることが少ない。見るのはお悔やみ欄であったが、最近番組欄も見るようになった。自分が見ようとして見る番組はあまりない。ところが、最近一つ増えた。タイトルは「植物に学ぶ生存戦略」という番組である。先月から新シリーズが始まった。過去のシリーズを見てファンになった。どう面白いかと言えば、ん~ん。自分の乏しい語彙力では表現できないが、ぶっ飛んでいる、という表現がいいだろう。

 テレビは何を売っているのかと考えたら、おバカや不安や希少性などを売っているのであろう。特に、不安については、人間は不安を感じたら優先度を上げてお金をつぎ込むという心理を突いている。希少性は、高齢者が元気で働く姿や定年後に山村に移り住んで充実した生活を送っている姿、おバカはこっちが感染してしまう。2,500円のランチを食べて、甘いとか柔らかいとかリーズナブルなどと言っている。こういうのに対して、大人の笑いというのを提供している番組がこの番組だと考えている。

 常連さんが2名来店され、いろいろな話で盛り上がった。

 今日は土曜日で混んでいる。モーニングサービスを食べ終わった老人が、おねえちゃん、お茶と言っている。店側は困っていた。むろんお茶は無料という意味で催促したのであろうが、コーヒーショップでは販売しているのである。結局、水で落ち着いた。

 40代ほどのおっちゃんが、自分がかばんを忘れたことに対して、家族らしい相手を大声でなじっている。どこかの経営者っぽいが、この程度の常識も持ち合わせないなら、店も持たないなあと思った。

 帰宅して昼食を作る。二八蕎麦の乾麺が残っているので、ゴボウニンジンの天婦羅も添えておろしそばで食べる。やはり、ソーメンと言った方が近い。いつもは、この後に昼寝であるが、何か元気であった。そこで、静かに蕎麦を打つ。3食分である。打ち立ての蕎麦は粉っぽいので明日以降に食べることで寝かせる。

 しばらくなご成っていたら、炬燵が取っ払われているそうして、足が2本取れていることが分った。そこで、修理である。最近修理が多い。ひどくちゃちな作りであった。

 ドリルで穴を開けて、ネジで締める。これで、当分持つだろう。

 やっと今日の予定である。今日は、お遍路の写真の現像である。ここへも歩いて行く。風も気持ちがいい。

 途中公園を通るが、沈丁花の匂いが引き立っており、先に行くと花が咲いていた。

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 現像というか、今の時代はプリントというようだ。

 歩数は、1万7千歩になった。これはダメである。1万歩歩くことが難しいと見聞きするが、確かにその通りだと感じている。

■「私は夕暮れ時に死ぬと決めている」(下重暁子著、河出書房新社、2020年)を読む。(その2)

「定年後の家計簿も決して人まねをしてはいけない。」

「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。」

「~必ず自分で決めて責任は他に転嫁しないことを心がけた。」

「~精神的に豊かな老後を送っている人々には~好きなことを持っていることだ。」

「知能偏重の教育の陰で、感覚や感受性がどんどん失われている。」

「なぜ軽井沢にいるかといえば、呼吸が楽だからだ。」

「小春日和のことを欧米では、老婦人の夏というそうです。」

「印象の強い弱いはその人がものを考えているかどうかに左右される。」

「四年前からフランス語を習っている。」

「日本は面倒見がよすぎて個が育たない」

「成長とは何かというと、自分の目の前にある権威を一つずつ乗り越えることだからだ。」

「木魂というように、木には魂があり、霊が宿る~」

「もらうものはいらない。」

「ふだん使いだからこそいいものを使おう。」

「経済効率のよいものばかり大事にしているうちに、ほんとうに美しいもの、いいものを見る目が失われてしまった。」

「整理しだすと、残り時間が少ないっていうわよ」

「趣味でお金を少しでもかせごうなどとはとんでもないことだ~」

「趣味で、金もうけはいけない。」

「シンプル・イズ・ザ・ベスト」

「“竹の秋”は春の季語で、“竹の春”は秋の季語である。」