■疲れ
このブログでは何度も書いているが、老後の生活で一番大切なことは、いかに休むかであると考えている。自分のような老後初心者は、これがうまくできないで、生活に支障が出やすい。賃金労働者の場合は、休日という制度があるので強制的に休まなければならない。しかし、自由の身になったからには、全てが自己責任である。今日は、疲れが表れた日であった。
体調が悪くても4時過ぎには起床する。なんとなくだるいので、クラッシク音楽を掛けてうつらうつらしていると、二度寝に近い状態になった。今日はゆっくり過ごそうと考え、いつもの日常に決めた。
いつもより30分早く家をでる。こうなると、セカンドオフィスは開いていないので、その辺をぶらぶらすることにしていた。家を出て5分ぐらいたってからだろうか、ゴミ出しを忘れていたことに気が付いて戻る。
再び、歩きだして、また5分ほどしたら、忘れ物を思い出して、戻る。このため、30分の余裕は無くなって、開店時刻と同じ時刻にセカンドオフィスに到着する。
♪♪生きていることは一夜かぎりのワン・ナイト・ショー~。
まもなく常連さんが1名来店された。ところが、第2部の常連さんも来店された。これは驚いたね。
帰路は、川沿いを選ぶ。冬鳥のヒドリガモの番が泳いでいる。怪我でもしているのだろうかと心配する。
葉桜もいいねえ。
花びらの絨毯を通る。
帰宅後は昼食である。今日はスパゲッティの日である。面倒なのはやめて最速のケッチャップ和えにする。ワンタンスープにしようと袋を見たら、水餃子となっていた。海老入りということであった。このギョウザは、スープギョウザが最も合っていると感じた。
満足である。
いつものように昼寝をする。20分ほど眠ればいいかなと思っていたが、起きたら90分後であった。やはり疲れているのだなあ。
♪♪矢のように走る時の間で踊ることさ~。
フォレストの準備作業をやろうとしていたが、機を逃した。そこで、第二部へ行くことにした。アイスコーヒーである。常連さんが5名いらした。朝の方もいて、今朝のことを紹介されていた。
気が付くとハナミズキが花を付けだした。ここは花水木通りであった。
夕飯は、弁当になった。まあ、バランスは良さそうだ。
突然、電話が入った。明日から仕事になった。まあ、諸物価高騰により、少しでも稼いで生活防衛をしようかね。
■「作家は時代の神経である」(高村 薫著、毎日新聞出版、2021年)を読む。(その2)
「感染が終息すれば経済はV字回復する、などという政府の弁を信じてはならない。私たちの暮らしも経済も、コロナ以前から十分に老いていたのであり~」
「いくら同調圧力の強い社会だといっても、国や自治体の要請にすぐさま右へならえで従うほど私たちは従順でもない。」
「~政府が経済的打撃と損失の補償が膨らむことを恐れたためであり、民主主義社会では私権の制限の強制はできない、などというのは、政治家の言い訳に過ぎない。」
「~緊急事態宣言といいつつ、どこまでも自粛と要請に留めることで、政治は結果の責任は負わないということである。」
「~研究者の間ではデジタル機器の活用が成績向上につながるというデータはなく~」
「等しく国の支援を受けるなら、将来は等しく支払ってもらう」
「これらはすなわち国民の命を守る意思がない、もしくはその能力がないということである。」
「~言葉は論理であり、言葉の軽視はすなわち論理の軽視であり、論理の軽視は社会秩序の解体である。」
「~政府が次々に打ち出す各種の緊急経済支援はほとんど青天井であるが、これなどはまさしく無策の裏返しである。」
「~この大規模な財政支出の先には早晩、借金穴埋めのための増税の話が出てくること。これはむしろ必ず出てこなければならない話であり、仮に出てこなければ財政破綻へまっしぐらになる。」
「~ビッグデータの活用が、さまざまなレベルで国家が個人のプライバシーに手を伸ばす道を開くものである~」