■たん
替歌をシリーズ化しようと考えている
元歌は、すずめの学校
「ちぃ ちぃ パッパッ チィパッパッ
すずめの学校の先生は
鞭を振り振り ちぃパッパッ
ちぃ ちぃ パッパッ チィパッパッ」
替歌
「カーカー ペッ ペッ カーペッペッ
体の悪い ぜんちさんは
痰を吐き吐き カーペッペッ
カーカー ペッ ペッ カーペッペッ」
たんと言えば、ほとんどの方は牛タンであろう。
昨日のテレビでは、豚タンを使った料理を出していた。
たん=痰と思う人は、同士である。この咳と痰に苦しんでいる。
入院中、自宅からティッシュペーパーを持って来てもらったら、
数日で無くなった。
そこで、毎回外の洗面所で吐いていたら、
うるさいと看護師さんに叱られた。
最後の手段として、清掃員の方からトイレットペーパーをもらい、
ミシン目で切り取ってから折りたたむと痰取り紙が大量に出来た。
しかし、これも看護師さんに見つかり叱られた。
金を払うと言っても駄目であった。
ここで記憶は、約半世紀前まで遡る。
父親は、自分と同じ■■■で病んでいた。鮮明に思い出すことがある。
それは、母親が敷布団を丸めて、父親が寄り掛かって、
痰を吐いている姿である。新聞紙を折り畳んで、
毎回痰を吐くページを変えながら吐いていた。
痰の色は、赤黒く、血痰だったと思い出す。
今でも痰は出る。小学生の時に肝臓病で入院したときに、
痰の検査とかで、丸い容器を渡されたが、痰は出なかった。
それ以来、自分は痰が出ない体質だと信じていた。
痰の原因や成分は、知らないが、想像することで楽しめる。
まず、健康なときには、痰は出ない。自分の想像であるが、
痰は炎症部の細胞と薬剤の反応物だと信じている。
まあ、健康のバロメーターにはなるだろう。
今は、四六時中、痰が出る。道に吐けば家人に叱られ、
ティッシュを使えば大量に消費してしまう。
そこで、最近取り入れたのが、いわゆる痰壺である。
使っていないプラスチックのコップを枕元に置いき、
そこへ痰を吐く。落ち着いたら、トイレに流し水で洗う。
今はこの方法が、一番いい。
外出の時は、登山の時に使うペットボトル入れに痰壺を入れ
カラビナでリュックに止める。ぶらぶらになる。
替歌
「ぜん ぜん ぜんちの痰壺は
風に揺られて ぶ~ら ぶら」
■「がんばらない生き方」(池田清彦著、中経出版、2009年)を読む。(その1)
「何かを得ると、何かを捨てることになる」
「~“やればできる!”とか“人間はみな平等だ!”といった幻想が、巷に蔓延している~」
「右肩上がりにならない人生」
「会社が倒産することは、それほど特殊なことではないんです。」
「お金がないならないで、それなりに暮らしていけるもんです。」
「どううでもいいことで、いちいち衝突するのはエネルギーのムダということもありますしね。」
「人まねは大切ですが~」
「だからこそ、“無駄”に挑戦することを通じて“自分の適性”を知っている人は有利なのです。」
「~本を読むことよりもむしろ、考え込むことの方が好きですね。」
「~ネット社会の大きな弊害は、“時間”の大切さが軽く見られてしまう点にあります。」
「どちらにせよ、国の政策など信用するのはバカなのです。」
「~人間であれば誰でも、人生の随所で“優越感”を味わいたいと思うはずです。」
「趣味はマイナーである方がいい」