延段

■延段
 今日も受験対象者がいるので、すでに終えた者は学科になる。午前中は庭づくりである。あまりにも難しく付いて行けなかった。
 まず、石材である。これをどこの場所にどういう形でいくつ置くかを決めなければならない。石の気勢を考慮して設置する。DVDも見た。庭が広く見える様にしなければならないのがポイントである。
 続いて樹木である。これも同じくどこにどんな樹を植栽するかを決めなければならない。これを先週造ったミニチュアで行う。高さの違う樹をどの位置に植えるとどのように見えるかをいろいろ試しながら確認しているのである。少しずらすだけでも全然様子が違うことが面白かった。しかし、よく考えてみると、木の高さや幅や花や実の時期や色、剪定方法などを樹木ごとに把握しておかなければできない。背景を高木で隠すには、どの木が適しているか。季節ごとにどういう状態になるか。低木はどの位置に何を植栽すればいいかも季節ごとの移り変わりを考慮して決めていくのである。さらに、コケ類、花なども同様である。
 総合的な深い植物の知識がなければできないと思った。
 午後からは受験組が終わったので全員で延段作りである。延段は敷石の一種で、自然石を使って歩く道を作るのである。近くのスーパー銭湯でも見れるし、自分の家の駐車場もそうなっていた。いわゆるパズルである。これは、目地の美しさを問うもので、禁じ手もたくさんある。自然の石を組み合わせて、真っ直ぐに水平な石の道を作るのである。
 今日は3人で取り組んだか、思いのほか難しい。しかし、手順は存在する。最初は角石を選び、次いで周りの石を選ぶ。石の中で直線部分の場所しか使えないことになる。そして、内側を埋めようとするが、そう都合のいい形の石があるわけがない。そのため、試行錯誤が延々と続くことになる。
 やっとなんとか埋めたと思っていたら、高さがまちまちで茶室に向かう和服の女性がけつまずくと指摘されたチームもあった。来週の午前中まで続く。

■「余命」(五木寛之著、祥伝社、2015年)を読む。
「テレビや雑誌などで、100歳ちかい高齢者が元気でマラソンや水泳にはげんでいる姿が紹介されるのは、それがめずらしいからだ」
「余命を考えることのできる人生は、余裕のある人生です。」
「長寿ということは、多くの病を抱えて生きていくことです。」
「人は長生きするために生きるのではない。」
「お遍路も、死出の旅に出るという覚悟で真っ白な死に装束で歩き出すわけです。」
「百歳以上の長寿者の約80%ぐらいは、寝たきり介護の状態にある〜」
厚生労働省の発表では、日本人男性は71.19歳、女性は74.21歳が健康寿命なのだそうです。」
「お迎えはどこから来るのと孫が聞く」(シルバー川柳)
「〜人はすべて『病める心』の持ち主です。」(金子みすず
「〜自分の直観というか、動物的感覚を信じて生きていく以外にない〜」
「〜ブッダ同様、芭蕉にとっても理想の死というのは、野垂れ死にだったのではないでしょうか。」
「〜長寿イコール幸福ではありません。」
「〜人生の終わりをきちんと締め括ることが人生にとって一番大切なことなのではないか〜」
「ぼけるということは、無残にもここまで衰えた自分というものを実感せずにすむ、神の摂理だ〜」
「〜葬祭というのはひょっとしたら人間の生活にとって大事なことかもしれません。」
「死のイメージトレーニングをしていると、日々生きている生の充実感、残された時間に対する貴重な実感というのが湧いてきます。」
「あと何回できるのか、回数は限られているのだ〜」
「〜体に対する自分の予感というものを日常的に大切にしている〜」
「〜六十過ぎたら自分が死んだときのイメージをできるだけ頭に描いたほうがいい。」
「死のレッスンということで言えば、少しずつものを処分していくということも本当は大切なことなのでしょう。」
「やはり西行のように、自分の死を計画して、逝き方を考えて、自分の美学に従って死んでいくというのは、すごく立派なことだと思うのです。」
「残された時間は、けっして知ることはできない。しかし、それが短かろうが長かろうが、やがて終わる事だけは確かなことだ。」